膵がんステージⅣ「余命7カ月」の宣告。絶望から這い上がり完治した男の物語「ゴミになってたまるか」(前編)

取材・文●髙橋良典
撮影●「がんサポート」編集部
発行:2018年11月
更新:2020年2月

  

川嶋勝美さん(協同組合タッケン理事長)

かわしま かつみ 1948年4月13日青森県蓬田村生まれ。早稲田大学中退。銀座でたこやき屋を手始めに青森博報堂、家具のキノシタ、協同組合タッケンに創立時から参画。現在、同理事長。NPO法人ライフサポート青森代表、NPO法人青森地域再生コモンズ代表。2007年膵がんステージⅣを宣告され、2017年12月がん患者としての保護観察終了。著書に『すい臓がんステージⅣから還ってきた男』(タッケンホールディングス刊・アマゾンでも販売中)がある

膵がんは生存率が他のがんに比べ極めて厳しい病である。

川嶋勝美さんはその膵がんのステージ(病期)Ⅳと診断され、余命7カ月と宣告された。大酒飲みで煙草は1日3箱以上、その上運動はまるでしない川嶋さんは、2006年10月出張先のホテルで左脇腹に今まで経験したことのない激痛に襲われたのだ。

そしてそれがすべての始まりだった――。

突然の左脇腹の激痛に一睡も出来ず

趣味の海釣り、巨大マグロを釣る

川嶋さんが最初の体の異変に気づいたのは、2006年10月30日の夜のことだった。その日は五所川原(青森県)で取引先と打ち合わせの後、懇親会を開く予定になっていたが先方の都合で流れた。仕方なく1人で焼き鳥屋にビール1杯と焼き鳥10本で夕食を済ませ、宿泊先のホテルに戻り、シャワーを浴びて横になろうとしたその時、川嶋さんは左脇腹にいままで経験したことのない、差し込むような激痛に襲われた。

とても我慢できる痛みではなく、ホテルでタクシーを呼んでもらい近所の病院に駆け込んだ。

当直の若い医師は痛み止めを処方してくれたのだが、それを飲んでも痛みは一向に収まる気配はない。とうとう川嶋さんは痛みで朝まで一睡もすることが出来なかった。

翌朝、社員にホテルまで迎えに来てもらった川嶋さんは自宅のある青森に戻り、友人でかかりつけ医の元へ直行したが、そこでも何の病気なのか判明しなかった。

取り敢えず痛み止めの薬を処方され、飲んでいるうちに時々痛みが走ることがあるものの、徐々に酷い痛みは薄らいでいった。

CT検査も血液検査でもとくに異常が見られなかった川嶋さんは、食中毒か何かだろうと判断し、激痛があった翌日からは、続けていた禁酒・禁煙以外は普段通りの生活に戻っていた。

酒も大好きで煙草も1日3箱以上吸っていた川嶋さんだが、その日を境にピタリと止めた。

余命7カ月と宣告される

翌2007年2月9日、不動産関連の会議が東京の品川プリンスホテルであったので、青森空港から羽田まで向かうことになったのだが、川嶋さんはだるさや疲れを感じて行くことを躊躇した。実はその前々日から37.7度の発熱があり、体調が思わしくなかったのだ。

それでも仕事なので、無理を押して出かけたのだが体調は思わしくなく、帰りはほとんど歩くのがやっとの状態で、ようやくの思いで自宅に辿り着いたのだった。

そんな川嶋さんの状態を見た奥さんは、「とてもこれは普通じゃない。何か大きな病気ではないか」と心配してくれた。奥さんは中学校の同級生で、助産婦・看護師として20年以上、青森県立中央病院で働いていた。

かねてより奥さんは川嶋さんに大きな病院での検診を勧めていたのだが、川嶋さんはズルズルと先延ばしにしていた。そこでかかりつけ医に相談すると、青森市民病院でしっかり検診することを勧められた。

「この頃は高熱が続いて、解熱薬を服用することが続いていました。夜、7時ごろになると38度ぐらいの熱があり、体がだるくて何をする気にもなれませんでした」

しかし、2月21日に青森市民病院に入院して、何度もCT、心電図、血液検査などを受けたのだが病気の原因は一向に分からず、体の具合も徐々に悪くなっていった。

見かねた奥さんが、セカンドオピニオンを求めるため、担当医に弘前大学附属病院とがん研有明病院での検査を受けることを申し出たのだった。

青森市民病院に入院したまま、セカンドオピニオンを求めるため、2月26日に弘前大学附属病院を受診した川嶋さんは、翌日、担当医から「膵尾部(すいびぶ)がんのステージⅣでこのまま何も治療をしなければ、余命は7カ月」の宣告を受けたのだった。

奥さんと一緒に担当医からの説明を受けていた川嶋さんだが、他人事のようにその説明を聞いていた。

「私はそのとき高熱が出ていて体もだいぶ弱っていたので、医師の説明内容が良く理解出来ないままその話を聞いていました。カミさんは相当深刻なことだと思ったみたいですが……」

一刻も早く手術をしたほうがいい

翌2月28日、がん研有明病院に行くために、奥さんと奥さんの友人で看護師経験のある田澤正子さんの3人で青森空港に向かった。

「彼女にがん研有明病院を探して、予約を入れてもらいました。カミさんは私が『余命7カ月』と宣告されて気持ちが動転していたので、田澤さんに2人を支えてもらい感謝しています」

3月1日、弘前大学附属病院での検査データを持参して、不安な気持ちを抱えながらがん研有明病院に向かった。

がん研有明病院は素晴らしい病院環境と設備だった。

「日本の医療の最先端を見たような気がしました」

担当の医師は今までの画像フィルムや検査データに目を通した後、「体に負担になりますが、検査しますか」と尋ねてきた。

「もしかしたら、弘前大学附属病院とは違う結果が出てくるかもしれないと思い、『最初から検査をお願いします』と頼みました。藁にも縋る(わらにもすがる)思いでした」

検査終了後、病院近くのホテルで1泊して翌日、病院に検査結果を聞くために向かった。

その結果は弘前大学附属病院が出した結論と同じ「膵尾部がん、ステージⅣ」と告げられた。

担当医は「川嶋さんの症例は非常に珍しくて、ステージⅣでも今なら手術は可能です。病気の進行状況からみて、一刻も早く手術をしたほうがいい」と勧めてくれた。

膵がんは完治を期待できる手術が行われるのはステージⅡまでで、ステージⅣの川嶋さんが手術可能なのは極めて希と言うべきだった。

そこで手術の可能な日程を調べてもらうと、がん研有明病院は1カ月半先まで予約で一杯。弘前大学附属病院は、2週間以内に手術が可能とのことだった。

「一刻も早く手術したほうがいい」とのがん研有明病院の担当医の勧めもあって川嶋さんは、弘前大学附属病院に入院することに決めた。

「先生にお任せします」

和かに取材に応じる川嶋さん

青森に帰った川嶋さんは、3月4日にそれまで入院していた青森市民病院を退院する手続きを取り、翌5日には弘前大学附属病院に入院した。

川嶋さんの担当医は当時、助教授だった袴田健一さんで、その袴田さんから「手術、放射線、抗がん薬。どうされますか?」と訊かれた。

そんなことを聞かれても、どの治療方法が最善なのかわからない川嶋さんは「先生にお任せします」と答えた。

すると「川嶋さんの場合、手術が可能なのでそれで検討したい」と袴田さんは応えた。

後でわかったことだが、袴田さんのスタッフの中でも川嶋さんの手術については意見が分かれ、「手術をしても苦しむことになるだけでは」との意見もあったという。

最終的に「手術をやる」ということに決まり、手術日は3月12日に決定した。

手術は胃の3/4、脾臓全摘(ひぞうぜんてき)、膵臓、十二指腸、胆のう、横行結腸の一部を切除する大手術になると川嶋さんは聞かされた。

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