子宮体がんで子宮と卵巣を全摘した「歌う尼さん」 思い通りにいかないほうが人生は深くなる

取材・文●髙橋良典
撮影●「がんサポート」編集部
発行:2019年5月
更新:2019年5月

  

やなせななさん シンガーソングライター/浄土真宗本願寺派華咲山教恩寺住職

やなせ なな 1975年奈良県高市郡高取町生まれ。1999年龍谷大学文学部真宗学科卒。2004年5月シングル『帰ろう。』で歌手デビュー。2010年浄土真宗本願寺派華咲山教恩寺継職。これまでに5枚のアルバムを発表しCMソング、ゲームのテーマソング、劇中歌などに採用される。ラジオ番組のパーソナリティ、講演活動、映画の企画・脚本・音楽制作など多方面で活躍。30歳で子宮体がんを体験した経験と僧侶という視点を生かした歌とトークは幅広い層から支持され全国47都道府県およそ600カ所でのコンサート・法話・講演活動を成功させている。著書に『歌う。尼さん』(遊タイム出版)、『ありがとうありがとう、さようならさようなら~歌う尼さんの仏さま入門』(さくら舎)、『よるがあけるよCDブック』(さくら舎)、近著に『歌う尼さんのほっこり法話』(国書刊行会)がある

いつも笑みを絶やさず、ソフトな口調で語りかけるやなせななさん。

「歌う尼さん」として知られる彼女は奈良県教恩寺住職でもある。彼女は30歳目前にして子宮体がんを発症し子宮と卵巣を摘出する体験をした。結婚を諦め、音楽活動に人生を捧げようと思っていた矢先、今度は所属事務所が倒産。友人たちが結婚し、出産して幸せな家庭を築いていくなか彼女たちを妬み、恨み、そしてすべてに絶望した彼女があるきっかけで立ち直ることができた。そしていま悩める皆さんに伝えたいこととは……。

シンガーソングライターを夢見るも

奈良県高取町の代々小さな兼業のお寺の3人兄妹の末っ子として生まれたななさんが、6代目住職になったのは特別の理由があった訳ではない。

「私だけ大学卒業後もぶらぶらしていたので自然とお寺を継ぐことになったのです」

だが、大学卒業後、すぐにお寺を継いだわけではない。

音楽が大好きで、龍谷大学真宗学科に進学したもののバンド活動に熱中し、アルバイトをしながら音楽活動をしていた。プロのシンガーソングライターとして活動していきたいと、東京などで開かれたオーディションを片っ端から受けるがことごとく落選。それは都合100回にも及んだ。

落選し続けた理由をこう分析する。

「私の年齢は当時20代半ばで若くはありませんでした。背も低く、容姿に華があるタイプではありませんので、メジャーシーンにはあまり向いていないと判断されたのでしょう。それになにより私の作る歌は人の生き死に関したものが多くて、音楽プロデューサーなどに『こんな陰気で難しい歌が売れると本気で思っているのか』とよく言われました」

それでもななさんは、シンガーソングライターの道を諦めることはなかった。それは何故なのだろうか。

「私自身、私の楽曲を必要とする人がいると思っていました。もちろん何の根拠もありませんけど。でも何故か確信はありました。今思えば若気の至りですが」

不正出血が続き不安に

2004年5月、ついに『帰ろう。』で念願のCDデビューを果たした。

「当時の私はやっと『私の才能を理解する人間が出て来たか』というようなおごった気持ちでいました」

しかし、作品はまったくといっていいほど売れなかった。

「今振り返れば、オーディションを受けて落とされた100社の担当者がおっしゃって通りだと分析できますが、当時はどうしてだろうとつらい気持ちのほうが大きかったんです」

コンサートで熱唱中のななさん

CDデビューした当時は東京の事務所に所属していた。でもどうしても東京に馴染めず、たまに仕事がある度、奈良から上京していた。

CDデビューして2年目の頃、ななさんは何だか体調がおかしいと思い始めた。

「食べても痩せてきて不正出血が続くようになったんです。でも体に痛みを感じることもなかったのでそのまま半年余り放っておいたんです」

それはどうしてなのか。

「婦人科系の話は他の人に相談し難いものなんですね。相談できるとすれば母か姉なんですが、不正出血が続いていることは相談しづらかったですね。丁度そのときが29歳だったので世代が変わるときには体調も変わるものかな、程度に軽く考えていました」

その間にも不正出血は増える一方で、ポト、ポト床に落ちるまでになってきた。

さすがに呑気な彼女も「これはおかしい」と思い、地域にある小さな産婦人科を受診する。

だがそのクリニックの医師は、彼女の年齢と健康そうな状態を見て「ホルモンバランスの異常でしょう」と言っただけで、あとは子宮頸がんの検査をした。その結果、「異常なし」だったため「心配いりません」と帰されたのだった。

医師にそう言われひとまず安心はしたものの、その後も不正出血は止まるどころかますます酷くなっていき着替えもままならなくなってきた。

それで初めて母親に打ち明けると、「もっと大きな病院で診察してもらいなさい」と大阪赤十字病院の産婦人科を受診し、精密検査を受けた。

後日、検査結果を聞きに家族と一緒に病院に行くと、医師から「もう少し詳しく検査をしますので、1泊してください」と言われたのだった。

「そのお医者さんはベテランの先生で、すぐに私ががんだと思われたのですね。それで、私には『今の検査では不十分なので、詳しく検査したいので入院してください』とおっしゃいましたが、一緒に行った家族には『おそらく子宮体がんです』と告げられていたのです」

そんな大変な事態になっているとは露ぞ知らない彼女は、「へぇ~入院か」と呑気にも思ったという。一方、家族と医師らはどのように告知すればななさんのショックが和らぐかを相談しあっていたのだった。

「子宮と卵巣の全摘手術を行います」

「手術も怖いし、死ぬのも怖い、何もかもが怖くて仕方ありませんでした」

一旦、退院したななさんは友だちと買い物に出かけていた。

そこにお母さんから電話がかかってきた。電話に出るとすごく怒った口調で「すぐ家に帰ってきなさい」

「何事だろう」と急いで家に帰ると、彼女の帰宅を待っていたお母さんとお姉さんから「どこをほっつき歩いてるんやねん。あんた『がん』やねん。明後日に入院してその2日後に手術やねん」と言われたのだった。

「そもそも、がんという病気は自分より遙かに遠いところにあるものだと思っていたし、『まさか自分ががんになるなんて』と思いました」

翌日、病院に向かったななさんは、今度は担当医から「初期の子宮体がんであることが判明しましたので、卵巣と子宮の全摘手術をします」と告知された。

30歳前の未婚で出産経験のない女性にとって、「子宮と卵巣を取ります」と告げられたことはあまりにもショックが大きく、到底受け入れがたいものだった。

結婚も出産もいつかしたいと考えていたので、担当医に「初期なんだから、何とか子宮と卵巣を残す方法はないのですか」と必死で尋ねた。

しかし、医師から返ってきた答えは無残にも「残念ながら選択の余地はありません。全摘しなければ死にます」というものだった。

その担当医はかって卵巣を残して欲しいという20代の患者の懇願に負け、卵巣を片方残したことでがんが再発、死なせてしまった経験があった。

この話を聞いて初めて自分ががんでこのまま放っておけば死ぬんだと実感した。

うなだれた彼女の目に真っ白になった指の爪が飛び込んできた。

「血の気が引くとはこのことかと思いました。手術も怖いし、死ぬのも怖い、何もかもが怖くて仕方ありませんでした」

それを彼女はいまでもハッキリと覚えている。

術後の後遺症に悩まされる

子宮・卵巣全摘手術はだいたい5時間ぐらいと言われていたので、トラブルもなく、ほぼその時間内に終了して家族は喜んでいたという。

しかし、1週間後に退院したななさんは、後遺症に長く苦しめられることになる。

まず、卵巣を取っているので、直後からホットフラッシュという更年期障害特有の症状に悩まされることなる。

「がんについての説明はあったのですが、後遺症についての説明は一切聞かされていませんでした。黄体ホルモン薬を飲んでいたのでその副作用がひどかったですね。朝起きると痛くて手足が曲がらないのです」

それと子宮と卵巣を取って体に隙間ができたせいか、腸が動いて痛くて仕方ない。

担当医にそれらのつらさを訴えても「腸は落ち着くまで我慢。黄体ホルモン薬は、飲み終わったら副作用は止まりますからそれまで我慢。更年期障害も我慢」と言われるだけだった。

ななさんはその後、約2年間そのつらさに苦しめられた。

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