グリオーマ、悪性リンパ腫、骨髄性白血病と3度のがんを乗り越えられた理由 娘の20歳の誕生日までは死ぬわけにはいかない・後編

取材・文●髙橋良典
撮影●「がんサポート」編集部
発行:2019年10月
更新:2019年10月

  

高山知朗さん 株式会社オーシャンブリッジ・ファウンダー

たかやま のりあき 1971年長野県伊那市生まれ。早稲田大学政治経済学部卒。アンダーセンコンサルティング(現アクセンチュア)戦略グループで各種コンサルティングプロジェクトに従事。その後、Web関連ベンチャーを経て、2001年、海外のソフトウェアやクラウドサービスを発掘して日本語化し、日本企業向けに販売する株式会社オーシャンブリッジを設立、代表取締役社長に就任。2011年7月、悪性脳腫瘍(グリオーマ)摘出手術を受ける。2013年5月に悪性リンパ腫を発症。7カ月の抗がん薬治療を受ける。2017年2月、急性骨髄性白血病を発症、さい帯血移植を受ける。同年2月オーシャンブリッジの株式を売却、同社ファウンダーに。著書に『治るという前提でがんになった 情報戦でがんに克つ』(幻冬舎)がある オーシャンブリッジ高山のブログ

30歳でIT関連会社を起業した高山知朗さんは40歳のとき、スイスのチューリッヒ空港で倒れ、グリオーマ(悪性脳腫瘍)と告知。幸いにも手術で一命を取りとめたもののその闘病から2年後、今度は左足に激痛が走り悪性リンパ腫が発覚。7カ月に及ぶ抗がん薬治療の末、悪性リンパ腫を克服。しかし、病魔はなおも高山さんに襲い掛かる。2017年2月、急性骨髄性白血病を発症。3度のがんを乗り越えてきた高山さんにその壮絶な体験と闘病生活を支えた強い思いを2回に渡って訊く――。

『治るという前提でがんになった 情報戦でがんに克つ』(幻冬舎)

 

「あそこから飛び降りたら楽になるんじゃないか」

入院4日目の夕方、主治医から「B細胞性リンパ芽球リンパ腫(悪性リンパ腫の一種)は急性リンパ性白血病と同じ治療をします。今回は『Hyper-CVAD/MA』(ハイパーシーバッド エムエー)という抗がん薬治療を、6コースもしくは8コース行います」と治療方針の説明を受けた。

抗がん薬治療の1コースは約4週間なので、6コースでも半年は入院しなくてはならない。

「半年も会社を休んで入院しなくてはならないのかと暗い気持ちになりましたが、コースとコースの間には自宅での外泊も可能とのことだったので、たまに家に帰れるなら、この治療も何とか乗り切れるかもしれないと思いました」

しかし、この考えは甘かったことに気づかされる。

「副作用はびっくりするくらい大変でした。最初の1コース目からグリオーマのときの副作用とはつらさの桁が100桁ぐらい違いました。『1コースでもこんなにつらいのに、このつらさがあと、5コースも7コースも続くのか。とてもじゃないが身体が持たないし、精神的にも持たないと思い、絶望的な気持ちになりました』

気分が悪くて水も食事も喉を通らなくなり、毎日1㎏ずつ痩せていく。冗談ではなく「このまま体重がゼロになって死んでしまうのではないかと思った」という。

高山さんは13階の無菌室病棟に入院していたのだが、病室の窓から近くのビルの屋上が目に入った。

「あそこから飛び降りたら楽になるんじゃないか」

そんな思いが度々、頭に浮かんできた、という。これまでの人生の中で自殺したいなどということは一切考えたこともなかったが、そこまで思い詰めるほど、その副作用はつらいものだった。

そのつらさを高山さんはこう表現する。

「本当につらくて、つらくて、底なし沼の中に自分がズブズブ沈んでいくイメージが頭から離れませんでした」

そんなつらい思いから自殺まで考えた高山さんを思い止まらせ、治療へと向かわせたのは、娘さんの20歳の誕生日を祝うまでは、何がなんでも死ねないという強い思いだった。

何とか移植を回避する道はないのか

悪性リンパ腫治療中。無菌室なので子供もガウンとマスクを着用。当時娘はまだ3歳

抗がん薬治療の次の治療の選択肢として骨髄移植やさい帯血移植が考えられたのだが、高山さんはそれらの移植はせずに、寛解(かんかい)させることはできないかと考えていた。

移植を避けたいのにはいくつかの理由があった。移植が原因で3~4割の患者が亡くなるというデータがあること。

移植治療中は、40度を超える高熱や、何日も続く下痢、味がわからなくなる味覚障害などの副作用や合併症があり、苦痛が非常に大きいこと。

移植が成功したとしても、免疫力の低下のために肺炎などの合併症で命を落とすリスクがあること。

長期に渡って、肝機能障害や皮膚障害などの合併症(GVHD)に悩まされること。また移植に成功しても再発してしまうケースがあること。

移植を避けたいという気持ちにはたくさんの理由があった。

また、学会内では高山さんのタイプの病気の場合、「本当に移植をしたほうがいいのか、移植するならどのタイミングですべきなのか」の明確な指針はまだ決められてはいなかった。

だから医師も患者に「移植をしなければ治らない」とも言えない。それを判断するのは患者だということになる。

高山さんは、造血幹細胞移植をせずに自分と同じ悪性リンパ腫が寛解した論文はないかと、必死で海外の学術情報サイトなどで論文を探し出し、それらの論文を担当医や主治医にぶつけて、今後の治療方針について何度も話し合った。

そうした中、1つの論文に行き当たった。同じタイプの悪性リンパ腫で、抗がん薬のみで60~70%の長期生存が得られたという、アメリカの著名ながん専門病院の論文だ。高山さんはたまたま、その論文と同じ抗がん薬治療を受けていた。

しかし、医師の経験上は、この抗がん薬治療では3分の1しか治らないという。60~70%が治っているというこのアメリカの論文の結果とは倍も違う。

高山さんは論文を細かく読み、医師と話して、この違いを見つけようとした。

「違っていたのは維持療法の有無のようでした。その論文では抗がん薬の点滴を8コース行なった後、再発を防ぐために2年半ぐらいは維持療法として抗がん薬の服用を続けると書いてあったんです。虎の門病院の場合は、入院中に強い抗がん薬治療をした患者には、退院後に維持療法はやらないという方針と聞いていました。QOL(生活の質)を優先させるためです。私は主治医にこの論文内容と同じように、退院してからも維持療法をやって欲しいとお願いしました」

その申し出を主治医は快諾してくれ、一通りの抗がん薬治療が終わり、退院した後も維持療法として抗がん薬の服用を続けていくことになる。

この入院中に高山さんの社会的立場に新たな変化が訪れる。それは自分で創業したオーシャンブリッジの社長を退き、会長職に就任したことだ。

「入院中、見舞いに来た会社の役員から『会社のことは我々に任せて、治療に専念してください。2度のがん治療で長期に渡り会社を留守にしていたので、会社に社長がいないのは、取引先だけではなく、社員に対しても不安要素になります』と言われました。

しかし、病気が治ったら社長に復帰して、また会社や社会に貢献したいとも思っていました」

会社を譲渡する決断をする

急性骨髄性白血病治療中。前処置の強力な抗がん薬の副作用で髪が抜け始めたため先に坊主にして、娘は当時7歳に

抗がん薬による副作用や、入院中に発症した帯状疱疹(たいじょうほうしん)と、その後遺症である帯状疱疹後神経痛の激痛に苦しんだりしたものの、2013年12月19日、何とか虎の門病院を退院することが出来た。

高山さんの悪性リンパ腫の場合、腫瘍が仙骨部に限局されていたため、退院後、再発を防ぐ目的で4週間、放射線治療を行うため毎日通院することになった。

「放射線治療は数分で終わるのですが、7カ月も入院したことで体力が落ちていて、正直、毎日病院に通うのが大変でした。最初のうちは電車に乗れないのでタクシーを使っていました」

実際、体重は退院した当初、入院前から12㎏減って46㎏まで落ちてもいた。

「足の筋肉が落ちていて、床に座ると自分の足で立ち上がれない。階段を上り下りするにも四つん這いになって上り下りする状態で、足腰が弱ってどうしようもない状態でした」

そんな状態を何とか回復に向かわせるべく、少しずつではあるが散歩をして、足腰を鍛えるなど、リハビリに励む毎日を送っていた。

退院して7カ月ほど経った2014年8月、放射線治療で減っていた白血球の数も元に戻ってきたため、当初の予定通り維持療法を始めることになった。

維持療法ではロイケリン(一般名メルカプトプリン)とメソトレキセート(一般名メトトレキサート)の抗がん薬とステロイド剤の3種の飲み薬を服用した。

退院して1年ぐらい経った頃、少しずつ体力が回復してきたこともあって、高山さんはもう一度、会社に戻って社会や社員たちに貢献したいという気持ちが強くなっていった。

そして週に1度ぐらい会社に顔を出しては、役員と話したり、現場の社員に「こうしたほうがいいんじゃないか」などアドバイスしたりしていた。

そんなある日、会社の役員たちから「会社に戻りたい気持ちはよくわかりますが、会長という立場の方が、たまに会社に顔を出して現場も見ずに社員に直接指示を出されると、現場は混乱します。とにかくまずは健康の回復に専念してください。そしてフルで戻れるようになってから、会社に戻ってきてください。それまでは会社は自分たちでなんとかしますから」と言われたのだ。

確かに長い入院治療で免疫力が落ちてしまったために、よく熱を出しては寝込む日々を送っていた。体力も思ったようには回復せず、病気前の半分ぐらいまで回復するのがやっとだった。

そんなある日のことだった。

「役員から言われた『フルで戻れるようになったら戻って来てください』という言葉を思い出しながら、なんとか病気前の自分に戻りたいとリハビリをがんばっていたのですが、あるとき突然、『もう100%の自分に戻るのは無理なんじゃないか』と気づいてしまったのです。それまでも必死にリハビリをして、少しずつ少しずつ体力を回復して、ようやく元の自分の50%程度。これから先どんなにがんばっても、せいぜい60~70%がいいところで、100%にまで戻すのは無理だろう、と悟ったのです」

悩みに悩んだ末、高山さんは会社の持ち株全部を、新しい株主に譲渡する決断をする。2017年1月31日、会社のM&Aの契約が成立した。会社第一、仕事第一だった高山さんには苦渋の決断だった。

この前年の2016年には、脳腫瘍から5年、悪性リンパ腫から3年が経過し、どちらも「ほぼ治った」と言える状態になっていた高山さんは、その2回の闘病体験をまとめた『治るという前提でがんになった 情報戦でがんに克つ』という本を出版している。

そして翌年の2017年に会社を売却した高山さんは、この時点で、がんからも会社からも「卒業」したことになる。

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