白血病から生還して試合することが目標でなく使命に代わった アンディ・フグと最後に闘った格闘家ノブ・ハヤシ

取材・文●髙橋良典
撮影●「がんサポート」編集部
発行:2020年1月
更新:2020年1月

  

ノブ・ハヤシさん 格闘家

本名:林 伸樹 はやし のぶき 1978年4月徳島市生まれ。15歳で空手を始め高校卒業後、1998年に単身、オランダに渡り格闘技の名門「ドージョーチャクリキ」に入門。99年のK-1ジャパンGPに出場し準優勝。2000年7月K-1ジャパンGPに出場、1回戦でアンディ・フグと対戦、1回KOで敗れる。同年8月にアンディ・フグが急性白血病を発症し35歳の若さで急逝したためアンディ・フグ最後の対戦相手となる。04年にドージョーチャクリキ・ジャパンを立ち上げ館長に。08年末に急性白血病と診断、2009年1月に入院、抗がん薬治療を受け、半年後に退院。同年末に再発。10年1月に骨髄移植を受ける。2013年11月に4年ぶりに復帰するまで闘病生活は6年に及んだ。190㎝、120㎏。現在、ドージョーチャクリキ・ジャパン館長

K-1のアンディ・フグと〝最後に拳を交わした男″として知られるK-1ファイターのノブ・ハヤシさんが、急性骨髄性白血病と診断されたのは2008年末のことだった。期せずしてアンディ・フグと同じ白血病に罹ったノブさんは7カ月に渡る入院生活を送り、リングに復帰した。が、ほどなくして再発。造血幹細胞移植を受け、再びリングに立つ。

現在、骨髄バンク啓蒙のためのチャリティ興行を行うなど、リングに立ち続けるノブさんにその想いを訊いた――。

風邪に似た症状が続いていた

「先生の『治る』という言葉だけを信じて、急性骨髄性白血病と闘いました」と語るノブさん

格闘家のノブ・ハヤシさんが身体の異変に気づいたのは2008年の暮れのこと。体調が悪く、風邪に似た症状が続いていたのだ。

普段は練習熱心なノブさんが、あまり練習に身が入らず、道場のソファーで休んでいる姿を見て、「最近、ノブさぼっているな。そんな男じゃないのに……。変だな」、と所属する「ドージョーチャクリキ」社長の甘井ともゆきさんは思っていたという。

「ハッキリとは覚えていませんが、風邪のような症状が多分5カ月ぐらい続いていたのだと思います。まぁ体調にも波がありますから、そんな状態もあるのかなと思っていました」

そのうち声が出にくくなって、近所の耳鼻咽喉科に駆け込んだ。

薬を処方され、一旦、声は出るようになったものの、唾液腺が大きく腫れてしまったので、そのクリニックから東京慈恵会医科大学附属病院の耳鼻咽喉科を紹介された。

耳鼻咽喉科で血液検査を受けたノブさんは、医師から「すぐに血液内科に行ってください」と告げられた。

「『血液内科に行け』と言われたのですが、当時、血液内科の意味がわかっていませんでした。ぼくらは職業柄、B型肝炎とかC型肝炎とかHIVとかがダメなので、血液の病気と聞かされても、そのことしか頭になかったですね。2009年1月に北京で試合することが決まっていたので、これで試合するのはいややな、くらいにしか思いませんでした」

だからだろうか、急性骨髄性白血病(AML)と告げられたとき、ノブさんは「肝炎じゃないんだ」と安心したという。

「主治医の先生に、『治ったら試合ができますか』――と訊きました」

もちろん、北京での試合は出場できなかったが、別の格闘家を立てたことでその試合は流れることはなかった。ただ、その時点では「リンパ腫を発症した」ことにして、急性骨髄性白血病と発表したのは4月以降のことだった。

「この事態にどう向き合っていいのか、その態勢がまだできていなかったので、急性骨髄性白血病を発症したことを発表していいものか判断しかねていました」と甘井さんは語る。

医師の「治ればリングに復帰できる」の言葉を信じて

急性骨髄性白血病の標準治療は、抗がん薬で寛解導入療法を経て、地固め療法を行う。ノブさんは2009年1月に入院し、7月に退院するまで、都合、5回の抗がん薬治療を受けた。

治療について、訊ねたときだった。ノブさんはこう答えたのだ。

「覚えていません。自分がこの病気になってから病気の知識とか薬の知識とかは敢えて入れないようにしていました。先生の『治る』という言葉だけを信じて、他の情報は遮断していました。だから同室の患者さんともなるべく話さないようにしていました。骨髄穿刺(こつずいせんし:マルク)の針さえ見ていませんでした。治ってから見ましたが、すごい太い針でしたね」(笑い)

ガラス越しに面会者と会話する、クリーンルーム入院中のノブさん

2009年7月、東京慈恵会医科大学附属病院を退院するノブさん

抗がん薬の副作用は医師から一応聞いてはいたが、「思ったより楽だった」、という。ただ、1回目の抗がん薬治療の後で高熱が続き、そのときはさすがに命の恐怖を感じた。

格闘家のノブさんだが、長期入院中はトレーニングはできない。従って筋力は低下する。この点についての不安はなかったのだろうか。

「先生から『治ればリングに復帰できる』と聞いていたので、先生の言葉を信じて、病気を治すことしか考えていませんでした」

そのとき、仮にリングに立つことが無理であっても、「一度、リングに上がってから引退する」と決めていた、という。幸いして治療は順調で7月には退院し、11月にはエキシビション・マッチながらリングに復帰することもできた。

白血病が再発し、造血幹細胞移植に

体調も徐々に戻りつつあったので、来年から試合に向けてトレーニングして行こう、と思っていた矢先の12月末に、再発した。

「変な話ですが、最初に急性骨髄性白血病とわかったときは、本当に体調が悪かったんですが、再発とわかったときは何でこんなに調子がいいのになんでやろう、と思いました」

定期的に行っていた骨髄穿刺の検査で判明したのだ。翌2010年1月に再入院することになる。

急性骨髄性白血病が再発すれば造血幹細胞移植しか選択肢はなく、ヒト白血病抗原(HAL型)が適合するドナーを見つけることはなかなかに難しい。しかし、幸いなことに上のお姉さんとHAL型が適合し、骨髄を移植する治療のため、1月から半年の入院生活を送ることになった。

移植したあとGVHD(移植片対宿主病)に苦しめられるというが、ノブさんはどうだったのだろうか。

「移植したあとに強い抗がん薬を使用するのですが、体力があるときに移植したので全然問題ありませんでした。ただ退院後、肺炎やドライアイなどのGVHDの症状はでましたね」

高校1年でプロの格闘家になると決めた

「病気で引退はしたくない」と常々考えていたノブさんは、免疫抑制剤を飲み続けながら復帰に向けてトレーニングを続けていった。

そして13年11月、「チャクリキ ファイティング2013」で特別公開スパーリングを行い、4年ぶりにリングに立った。

クラッシャー川口に右ストレートを打ち込むノブさん

この年の暮れのことだ。

JR蒲田駅2番ホームで横浜方面行の最終電車を待っていたノブさんは、足元が覚束ない男性がホームから転落したのを目撃するとすぐさま、ホームに飛び降り男性を救助した。

「瞬間、身体が反応してホームに飛び降りてました」

このことは12月29日付けのスポーツ報知の社会面に「元K-1戦士が人命救助 転落男性を救出」の見出しで掲載された。

こんなノブさんだが格闘家を目指すことになるきっかけとなったのは中3の受験勉強中に深夜番組で観たプロレス中継だった。

「小さい頃はおじいちゃんと一緒にプロレス中継を観ていたんですが、久しぶりに観て面白いな、と感じたんです。丁度その頃、K-1が始まって更に惹かれていきました。高校1年でプロの格闘家になるんだと決めていました」

高1で空手を始めたノブさんだが、小中学時代は警察官か学校の先生になりたいと思っていたという。

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