自分がその治療に安心感を得られるかどうかが重要 4期の大腸がんを克服した開業医
鹿島田忠史さん 誠快醫院院長
がん治療のセカンドオピニオンを求めてやってくるがん患者さんの相談に乗っている、代替医療の誠快醫院院長の鹿島田忠史さんが、ステージⅣ期の大腸がんに罹患した。大腸切除手術は受けたものの、肝臓に3カ所の転移は残ったまま。その治療を始めるは体力が余りにも低下していた。
そこで自身の体験を活かした独自の免疫強化療法の結果、肝臓の3カ所のがんは消えた。保険制度の束縛から離れ、自由診療を貫く鹿島田さんに自身の体験を訊いた。
大きなストレスを抱えた結果、大腸がんに
がん治療のセカンドオピニオンを求めてやってくる患者さんに、「がん免疫強化療法」という代替医療を施してきた鹿島田さんが、自身の体の変調に気づいたのは2018年春のことだった。
排便時に鮮血が出るようになり、貧血による倦怠感にも悩まされるようになった。
「これは、おかしい」と感じてはいたが、しばらく様子を見ることにした。
「多くのがん患者さんを診てきた私ですが、それだけに、自分ががんであるということを否定したかったのだと思います」
しばらく様子を見ていたものの、依然として出血は続き、体調が優れない状態は続いた。
どうしようもなくつらくなった鹿島田さんが病院に行き、CT検査をしたのは同年9月になってのことだった。そのときには、体重は13㎏も落ちていた。
CT検査の結果、横行結腸(おうこうけっちょう)と上行(じょうこう)結腸の2カ所にがん、肝臓に3カ所転移が見つかり、大腸がんのステージⅣと診断される。
「検査を受ければ、がんと診断され即入院になるな、と思っていましたが、案の定入院となりました」
鹿島田さんには大腸がんに罹った原因には思い当たるところがあったという。
「実は、数年前から親族間での大きなストレスを抱えた生活を送っていて、精神的にかなり参っていました。私ががんに罹った原因の1つに、このストレスがあったことは間違いないと思います」
腹腔鏡手術で大腸の約半分を切除
大腸がんを告知された1週間後の2018年10月初旬、大腸の約半分を切除する腹腔鏡手術を受けた。手術時間は約4時間半だった。
「私は代替医療を行っていますが、標準治療を否定するものではありません。手術しなければ、大腸がんは治らないと思っていましたから」
しかし、大腸の腫瘍は取り除いたものの、肝臓に3カ所転移した腫瘍は残ったまま。
実は、鹿島田さんは下血が続いていて、かなりの貧血状態だったこともあり、大腸がん切除の手術中に最高血圧が70まで低下、一時危篤状態に陥ったという。
手術前、鹿島田さんは主治医にこう話していた。
「手術はお願いしますが、無条件に抗がん薬治療をするつもりはありません。悪性リンパ腫や白血病は別にして、抗がん薬の一般的な効果は延命ですよね。それだけならまだいいのですが、副作用でQOL(生活の質)は確実に低下しますから。ならば、つらい5年より、QOLを維持できる3年を選びたい」
そう話していた鹿島田さんだが、入院中にゲノム(遺伝子)診断の記事を見ていたことで、もし自分に効果のある薬が見つかれば、抗がん薬を使用することに抵抗はなかった。
「ただ現行の保険制度では、抗がん薬を遣り尽くして、にっちもさっちもいかなくならないとゲノム診断はやれないということです。そこで主治医に相談すると、『数10万の費用はかかるけど』、とゲノム診断を行っている大学病院を紹介されました」
その大学病院を通してがん組織を米国に送った結果は、1カ月半後に判明した。
「有効な薬が見つかる確率は約10%なので期待してはいませんでしたが、自分のがんは既存の抗がん薬では効果がないと判定されました」
その間にも、肝転移の治療をどうすべきか、考えていた。
手術をするにしても、肝機能が落ちていて体力的に難しい。それでは「定位放射線治療はどうだろうか」、と別の病院にも相談に行ったが、無理だということだった。
残された治療法にはラジオ波焼灼術があったので、1カ月後に大学の後輩がいる病院に相談に行きMRIを撮影すると、肝臓にあった3カ所中2カ所のがんが縮小していると告げられた。
それを聞いて、何も慌ててラジオ波治療を行わなくても、としばらく経過を見ることにして、開業以来行ってきた「がん免疫強化療法」を本格的に実践していくことを決意した。
建築士から医師へ
実は、鹿島田さんはストレートに医師になったのではない。横浜国立大学建築学科を卒業後、積水ハウス(株)に入社。2年間研究所に配属され、設備設計の仕事を担当していた。
「大学に入学した当時は、クリエイティブでカッコ良く、楽しそうな仕事だと建築士を目指していたのですが、入学してみて自分にアートの才能がないことに気づかされました。そこで設備設計ならいいのかな、と思って積水ハウスに就職しました」
鹿島田さんが大学の建築学科を選択したのも、就職先に積水ハウスを選んだのも〝自由にやっていけそうだ〟と思ったからだが、当時の上司を見ていて楽しそうにも見えなかった。
「自分の20年後、30年後が見えてきたんですね。そんな先の見えた決まり切ったコースを歩むのは嫌だな、とそのとき思いました」
鹿島田さんが生まれた家は江戸時代からの商家だったこともあり、サラリーマンとして縛られて生きていくのが肌に合わなかった。
それなら、〝大手ではなく設計事務所なら自分に合った自由にやれる仕事が見つかるのではないか〟と思い、設計事務所に転職したのだが、案に反して収入は下がるのに勤務時間は長く、仕事はキツクなっていった。その上、設備設計は建築のなかの一部で、単独で仕事を受ける訳にはいかない。そうすると独立しても低賃金、長時間労働、かつ収入は不安定ときては、人生暗い。
「実家で母親が美容院と指圧の治療院をやっていて、そこそこ収入もあるし、何より医師免許を取って医院を開業すれば誰にも縛られずに自由に仕事が出来るということに惹かれました」
そこで設計事務所を退職、ある大学の医学部を受験。学科試験は合格したのだが、最終合格の条件が寄付金で金銭的余裕がなかった。もう1年頑張ってみようと再度、受験するのだが、今度はどの大学の医学部にも不合格。
仕方なく医学部の受験を諦め、設計事務所退職2年後に按摩マッサージ指圧師の免許を取得。その1年後、柔道整復師の免許も取得して、母親の経営する治療院で働いた。
指圧の仕事をしていくうちに、やはり医師免許がないと何かと制約が多く、医師免許を取得するしかない、と思うようになった。
鹿島田さんは4カ月ほど猛勉強して、83年に東邦大医学部に入学する。
89年に東邦大医学部を卒業、国家試験に合格。晴れて医師免許を取得し、91年品川区大井に自由診療の誠快醫院を開業する。
「最初から自由診療で開業しました。それは81年に操体理論の創始者である橋本敬三先生に出合い、1年間橋本先生の所に研修に行ったことが大きかったです。橋本先生の思想は素晴らしく、この思想を生かす診療をやりたかったのです。
その診療を行うには、保険診療では絶対にできなかったので、自由診療で開業しました。操体理論とは、『あとが気持ちがいいは、体にいい』、ということが大原則で、やっていて苦しいことや痛いこと、つらいことはやらない、ということです」
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