ぼ~っとして生きてたら今日1日がもったいないと伝えたい AYA世代の元教師が精巣腫瘍になって
中村祥太朗さん 不登校支援サポーター
家族にがん患者は誰もいない。ましてやがん保険など自分にはまるで縁がないと思っていた中村祥太朗さんが、まさかの精巣がんに罹患したのは26歳のときだった。ある日、右睾丸の腫れと痛みで近所のクリニックを訪れたことからすべてが始まった。
死ぬほどの抗がん薬治療の副作用、そのつらい闘病生活を支えた友人や家族。そして同室のがん患者からのひと言。中村さんはつらい闘病生活をどう乗り越えたのか。そして不登校支援サポーターをやっているのはなぜなのか、中村さんに訊いた――。
右睾丸に痛みと腫れが
現在、不登校支援サポーターとして活動中の中村祥太朗さん。10万人に1人という希少がんの1つである精巣がんが発覚したのは2018年6月、26歳のときだった。精巣がんの発症年齢は20歳後半から30歳代にかけてピークといわれている。今、社会問題になっているAYA世代での発症だった。
中村さんは2014年3月大学卒業後、同年4月から福島県いわき市の小学校の教諭として、3年間教壇に立っていたのだが、思うところがあって2017年3月に退職。
「子どもを教えるのは大好きだったのですが、会議など雑用が多く、学校というルールに自分を合わせるのに疲れたんです。もっと自由に生きてみたいと思ったからです」
退職後、選んだのは高校時代の仲間6人と居酒屋を立ち上げるということだった。
実は中村さんは大学を卒業時に教師になるか、杜氏(とうじ)になるか迷ったほど日本酒が大好きだったこともその後押しをした。
しかし、12月に居酒屋を立ち上げたものの、思い描いていたものと違ったため翌年3月、居酒屋経営から離れた。さて、次は何をしようかと考えていた6月に精巣がんが発覚したのだった。
「初めは右睾丸が腫れて、座っただけでも痛くてどうしようもない状態が続きました」
我慢しきれなくて近所の泌尿器科クリニックを受診すると、医師から「精道に炎症が起きていて、それが原因ですね」と言われ、抗生物質を処方された。
睾丸の腫れと痛みは、抗生物質を1週間ほど服用すると消えた。
「念のためエコーを撮りましょう」と提案されたのだが、クリニックの医師が女医だったため、若い中村さんとしては抵抗があった。
しかし、女医から「こういう病気をしたらエコーを撮ったほうがいい」と畳みかけられたことで、渋々エコーを撮った。すると、右睾丸に腫瘍と思われるものが認められた。渋々撮ったエコーだったが、結果、中村さんにとってラッキーだったといえる。
「念のためエコーを」と言われ渋々従った結果、腫瘍が見つかった。ただ、その腫瘍が果たして良性なのか悪性なのか、詳しく検査してもらうため、いわき市にある総合病院を受診することにした。
診察した医師は、「悪性か良性か摘出してみないとわからない」と言った。
「良性か悪性かわからないのに取るのかよ」と思った中村さんだが、この医師に最初から不信感を持ったという。
「この病気についてあまり詳しく話してくれなかったことや、話していて人間味が感じられなかった。髪が金髪だったことも手伝って、この医師に対して信頼関係を築くことが出来ないと思いました」
不安な気持ちを抱えて受診している患者にとって、医師が信頼に足る人物かどうかはとても大切なことである。患者にとって大切な点を理解していない医師がまだ多くいるのだ。
さらに襲いかかる悲劇
中村さんは信頼に足る医師を求めるため、実家近くにある仙台市立病院を父と一緒に訪れた。
精密検査を終え、医師と向かい合った父子は、「残念ですが悪性ですね。精巣腫瘍ステージⅡで、すぐにでも手術して摘出したほうがいいです」と告げられた。
そう告知されたとき、それが現実のものと思えず、「へぇ~、がんか」と夢の中の出来事ように聞いていたという。
「ふと横を見ると父は泣いていました」
帰宅して少し落ち着きを取り戻して、自分の病気をネットなどで調べているうちに、置かれている状況がかなり厳しいものだと再認識した。
2018年6月、仙台市立病院で右睾丸摘出手術を受けた。検査の結果、リンパ節に数カ所の転移が見つかった。
高校時代の仲間と立ち上げた居酒屋から離れた後、もう一度教員に戻ることを考えていたのだが、リンパ節転移が見つかったことで、「これは治療に専念しなければいけない」と観念する。
そんな中村さんにさらなる悲劇が襲いかかってくる。
抗がん薬治療を開始する前に、精子を凍結保存するため、専門のクリニックを受診したときのことだ。採取した精液の中に、精子が1匹もいないと告げられた。
炎症を起こした場所が悪く、精子がどこかで止まっているかもしれないと言われた。改めて手術を行って睾丸の奥から精子を取り出したが、やはり精子の数が数百匹しかいないことが判明したのだ。この精子の数では、将来結婚しても子どもを持つことは不可能に近い。
それを知らされた中村さんは強いショックを受けた。
当時、交際していた女性がいたのだが、退院後、彼女から別れを告げられた。
この事実が別れる原因になったかどうかわからない。しかし、少なくともその一因にはなったのではと思っている。
「自分はこの先、結婚しても子どもはできないし、相手に対して申し訳ないという気持ちになりました。だから、彼女が私から離れていくことに、自分から何も言い返せないのは当然のことだと思いました」
死んでしまいそうなくらいの副作用
7月から抗がん薬治療が始まったのだが、薬の副作用は半端ではなかった。
「とくにブレオ(一般名ブレオマイシン)はきつかったですね。他にはエトポシド(商品名ベプシド/ラステット)、ホルモン薬のデカドロン(一般名デキサメタゾン)です」
中村さんは「使用した薬についてもっと詳細にいうときりがありません」といって、私に病院から処方された薬剤の一覧を見せてくれた。
そこには中村さんが使用した30種類ぐらいの薬の名前がびっしりと記されていた。
「食欲不振、吐き気、口内炎、脱毛、色素沈着、味覚障害などありとあらゆる副作用は全部出ました」
抗がん薬治療を開始する前、看護師から「結構、大変ですよ」と言われていたのだが、治療開始早々の頃は「なんだ、こんなものか」と余裕だったという。
しかし、1週間過ぎた頃から吐き気、脱毛、皮膚を掻くと掻いたあとがそのまま残る色素沈着などが始まり、食事を摂っても味はまったくしなくなる味覚障害も始まって、立つことも歩くこともできないくらいつらくなってきた。
「本当にこのまま死んでしまうのではないか、と思うくらいしんどい日々が始まりました」
実は中村さんは主治医から抗がん薬治療を開始するにあたって、長期に渡って抗がん薬を投与していくか、短期間で強い薬を使うかの選択を求められていた。
そのとき中村さんは短期決戦を選んだ。だからある程度覚悟はしていたものの、ここまで副作用が強く出るとは正直思っていなかった。
抗がん薬治療で入院中も2週間に1度、外出許可は出ていたのだが、免疫も低下していたので外に出ることはしなかったという。
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