病院のなかを明るくしたい。病気を機に歌い始めた病院コンサートは300回超 「余命2カ月」の危機をくぐり抜けた遅咲きシンガーソングライター・あどRUN太さん

取材・文●守田直樹
発行:2008年10月
更新:2019年12月

  
あどRUN太さん

あどらんた
1948年、山口県生まれ。“人に役立つ音楽”をモットーにしたシンガーソングライターとして全国で活躍。2000年に日本作曲家協会主催「第2回新しい日本の歌コンテスト 自由曲部門」で「笑おうよ!」がグランプリ受賞。翌年に悪性リンパ腫を発症して以来、学校や病院などでのコンサートをすでに数百回実施している

あどRUN太こと、渡橋一則(おりはし かずのり)さんが悪性リンパ腫を告げられたのは、「笑おうよ!」がグランプリを受賞した翌年のことだった。妻だけに告げられた余命はわずか「2カ月」。だが、抗がん剤の効果で奇跡的な回復を遂げ、3カ月あまりで寛解にいたる。あどRUN太さんの歌声はあくまでもやさしく、心に響く。あどRUN太さんが奏でるのは、人々への応援歌だ。

サングラスに黒ずくめの衣装でステージへ登場

写真:ロックシンガーのようなサングラスに黒ずくめの衣装で
ロックシンガーのようなサングラスに黒ずくめの衣装で

そのコンサートは、山口県の小さな町の公民館2階で始まった。人権教育推進協議会主催の無料コンサートで、200人ほどの座席の3分の1ほどは地元の中学生で埋まっている。

サングラスに黒ずくめの衣装を着た、ロックシンガーのような男性がステージに登場した。

「いつも『なぜ、あどRUN太なんですか』と聞かれるので先に言っておきますが、私はこう見えても作曲が本業で、これはペンネームです。外国人ではありません」

平成4年にアトランタオリンピックが開催され、その響きが気に入ったため、とあどRUN太さんは言う。

「アトランタならぬ、『アド』ランタ。アドとにごらせたのは、広告の仕事をしていたからで、アドバタイジングのアドを使いました。なぁ~んだ、そんなもんかって言われますけど」

まだ堅い客席の空気がわずかにゆるむ。沖縄の三線を弾きながら喜納昌吉さんの「花」を唄い、ベンチャーズのギターソロを聞かせたあと、こう言った。

「7年前に血液のがんを患いました。胃のまわりのリンパが腫れ、胃がグチャグチャになって治療のほどこしようが無い状態になり、妻だけがドクターから余命2カ月と告げられました。これは私にとって人生を変えるぐらいの大きな出来事でした」

同僚の死に直面し、広告代理店を辞める

写真:広告代理店に勤務していた時代
広告代理店に勤務していた時代

あどRUN太さんは、広島を拠点にするシンガーソングライター。だが、普通の歌手と出発点からして違っている。

「見よう見まねで日記に曲をつけたのが最初でした。自分が死んだとき、3人いる子供や女房に何か残せるものはないかと考え、日記の文章にメロディーを乗せたんです」

学生時代にギターは弾いていたが、作曲は39歳になってからの初体験。勤めていた広告代理店を辞めたこととも無関係ではない。順調に出世の階段をのぼっていたが、所長という責任ある立場になったころ、ライバルだった同僚の死に直面した。

「年下でしたが、とにかく仕事が忙しく、疲れていましたね。新婚でね、葬式では赤ん坊が泣いて……。自分の姿とオーバーラップしたんです。こき使われて、棺おけの中に趣味の釣り竿1本だけ入れられ、机の上には白い菊が置かれ、また何事もなかったように会社は動きはじめる。それがいたたまれなくなったんです」

3人の息子は小学生と中学生と高校生と育ち盛りだったが、迷わず会社に辞表を出した。

そしてギフトショップを開店するが、2年ほどで倒産寸前に追い込まれる。銀行でわずかなお金を借り、ギター教室を開いて食いつないだが、3度の食事のおかずに事欠くほど窮乏した。 「お金が無いから肉なんて食べられないんです。オレはいいから、子供たちのおかずはなんとかしてやってくれって女房に頼んだのをよく覚えています」

2000年にコンテストでグランプリを受賞

写真:コンサートで歌うあどRUN太さん
写真:コンサートで歌うあどRUN太さん
コンサートで歌うあどRUN太さん

ギフトショップをたたみ、パン屋へと商売替えをした。フランチャイズのパン屋は成功する自信があったが、開業資金に800万円が必要だった。

「お金を借りに親戚の家へ行くと、ケンもホロロに断られましてね。車で踏み切りに飛び込もうと思ったことがあります。何でとどまれたかっていったら、助手席に子供がいたことと、たまたま広島で初めてできた友達が携帯電話をかけてきてくれたおかげなんです」

友人はあどRUN太さんの様子が変だと気づいていたのだろう。

「お前どこにおるんか、変な気を起こすなよ」

「いや……そんなことないよ」

電話の後にお酒を酌み交わし、吹っ切れた。死ぬ気になって金策に走ると、中小企業家倒産防止組合が保証人になってくれ、銀行から800万円の融資が受けられた。

「いまの自分があるのは、こうしたまわりの人や、音楽のおかげです」

最悪の時を脱したのだろうか。

知人の紹介で日本作曲家協会に入り、たまたま出した曲が大きな賞を受賞する。

「地元の夏祭りで、司会の仕事を終えた夜9時半ごろでした。電話が鳴って、『グランプリです。おめでとう』って。そんな夜に報告されると思わなかったので、最初は信じられませんでした」

2000年、日本作曲家協会主催の「第2回新しい日本の歌コンテスト」の自由曲部門で『笑おうよ!』が見事グランプリを受賞。

2年後には、『笑おうよ!』のCDアルバムも制作した。

すべてが順調に動き始めた矢先のことだった。

胃の痛みが我慢できなくなり、近くの総合病院に倒れこむように行くと、即入院が決まった。CTなどの検査をしたあと、数日後に妻の直美さんだけがドクターに呼ばれ、こう説明を受けた。

「病理診断中なので確定ではありませんが、悪性リンパ腫と思われます」

しかも肺に影があり、骨髄にも転移がみられるという。周囲のリンパ腺が腫れた胃は腸のように細くなり、胃潰瘍で開いているはずの穴が見えない状態で、腹水まで溜まっていた。

「余命は……2カ月くらいかと思われます」

告知をどうするか尋ねるドクターに、直美さんはこう言葉をしぼり出した。

「主人はたぶん悪性リンパ腫をがんだと知らないので、とにかくがんという言葉だけは使わないようにしてください」

そのため、あどRUN太さんは、自分ががんであることを知らずに闘病生活に入ったことになる。

「男は弱いですからね。女房が隠すよう言わなければ、今のぼくは無いと思います」

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