20代でのがん体験を活かして、講演など新たなことにチャレンジ
子宮頸がんをきっかけに母との絆を取り戻せた
(日本対がん協会・広報担当)
あなみ りえ
1981年東大阪市生まれ。2002年に自動車整備士の専門学校を卒業後、大手自動車メーカーに入社。04年ベンチャー系の不動産販売会社に転職し、その1カ月後に子宮頸がんの告知を受けた。術前化学療法を経て、05年1月に子宮全摘手術、続いて放射線治療を実施。保育園運営会社勤務を経て、08年10月にイベント会社グローバルメッセージを立ち上げた。そのかたわら、子宮頸がんに関する講演会活動にも精力的に取り組み、12年4月より日本対がん協会の広報を担当
23歳で子宮頸がんを発症した阿南里恵さん。治療後、さまざまな困難を乗り越え、起業や講演会活動に取り組んできた。現在は日本対がん協会で広報を担当している。20代の若さでがんと闘った阿南さんは何を感じ、何を得たのか。
がん体験を活かし、さまざまなことにチャレンジ
23歳の若さで子宮頸がんを発症し、手術で子宮を全摘。その経験を活かし、全国で啓蒙活動を行っている若きサバイバーがいる。人懐こい笑顔が印象的な、阿南里恵さん(30歳)。今春からは日本対がん協会の広報担当として、さまざまなプロジェクトに取り組んでいる。
がん体験を活かし、第一線で活躍している阿南さんだが、ここに至るまでには紆余曲折も経験した。がんによってやりがいのある仕事を奪われ、社会復帰を果たした後も、周囲の理解を得られず、退職に追い込まれた。それでも、あきらめずに進み続けた原動力は何だったのだろうか。
「過去には、本当にたくさんのことをあきらめなくてはならない時期がありました。『これ以上、あきらめるものはない』と思うぐらいあきらめて、『もういいじゃん。自分がやれることで生きていこう』と思った。そう吹っ切れた途端、講演の依頼や、応援してくれる人の数が急に増えたんです」
20代でがんを発症するという苛酷な運命に直面して、阿南さんは何を失い、何を得たのか。その軌跡をたどってみたい。
自動車メーカーを辞めベンチャーへ転職
バイク好きの兄の影響で、自動車整備の専門学校に進学。卒業後は、憧れの大手自動車メーカーに入社した。東京の研修部門に配属され、マニュアル作りなどを担当。だが、職場には定年間近の社員が多く、車作りの情熱や活気とは無縁だった。
このままでは、成長の時期であるはずの20代を無駄に過ごすことになる──さんざん悩んだ末、両親や周囲の反対を押し切って、入社1年半で退社。27歳の起業家社長が率いる不動産販売のベンチャー企業に転職した。
新しい職場は、若さと情熱、活気にあふれていた。入社早々、任されたのは新宿のワンルームマンションの販売。1軒1軒回って呼び鈴を鳴らし、飛び込み営業をした。未経験にもかかわらず、入社半月後に見事、成約。「阿南里恵、3千万円!」とオフィスに垂れ幕が下がり、職場の全員から祝福の抱擁を受けた。
「憧れの社長と熱い仲間に囲まれて……あのころは本当に楽しかったですね」
23歳という若さで子宮頸がんを発症
不正出血があったのは2004年秋。転職してわずか1カ月後のことである。
仕事が多忙でそのままにしているうちに、だんだん出血量が増えてきた。銀座のクリニックを受診すると、内診中、担当医がこう声を上げた。
「すぐ院長呼んできて!」
その様子に、阿南さんはただならぬものを感じとった。
「先生、私、大丈夫です。受け止めるからなんでも言ってください」
「子宮頸がんが進行しています。今日、明日にでも大きな病院に行ってください」
翌日、国立がん研究センター中央病院の婦人腫瘍科を受診した。医師は、内診をすませると、両親と一緒に来ることを勧めた。知らせを聞いた両親が大阪から駆けつけると、医師は阿南さん親子にこう告げた。
「詳しいことは検査してみないとわかりませんが、おそらく子宮を全摘することになるでしょう」
それを聞いて、母は泣き崩れた。号泣する母のそばで、父が医師と治療について話し合っている。その光景を、阿南さんは茫然と眺めていた。
相談の結果、実家がある大阪で治療することになり、会社には休職願いを出した。上司や同僚に病気のことを告げると、皆が阿南さんのために泣いた。
「絶対に戻ってこい」
仲間に見送られて新幹線に乗り込みながら、阿南さんはひそかに決意を固めていた。
(私の居場所はここにある。病気を治して、また絶対にここに戻って来るんだ)
腫瘍を小さくするため術前化学療法を実施
国立がん研究センター中央病院からの紹介状を持参し、大阪府立成人病センターで精密検査を受けた。医師によれば、腫瘍が大きすぎるため、術前化学療法で腫瘍を小さくする必要があるという。
年明けの手術に向けて、11月から術前化学療法がスタート。抗がん剤の副作用との闘いが始まった。
「食事時間を知らせる病院のチャイムが鳴っても、体がだるくて起き上がれないんです。ご飯の匂いをかいだだけで吐きそうになる。生きているのかどうかもわからないような状態でした」
そのうち、脱毛が始まった。髪の毛が抜けるのを見るのがつらくて、わざと閑古鳥が鳴く美容院を探して髪を剃ってもらった。自宅に戻り、窓から夕景を見ていると、母が帰宅するなりこう言った。
「いやあ、坊主がおるー。よう似おうてるやん」
「そうやねん。美容院のおばちゃん、女の子の髪の毛剃ったことないから言うて、1000円負けてくれてん」
明るさを装う母の口調に隠された動揺を、阿南さんは敏感に感じとった。娘ががんになったことで、母は自分を責め苛んでいた。同じ年頃の女の子を見かけるたびに、「なんでうちの子が」と悔やみ、泣き暮らしていた母。その母が、坊主頭になった娘を気遣い、涙を必死にこらえて明るく振舞っている。
「そのとき気づいたんです。母は、私が元気でいることがこんなにうれしいんだって。自分がしっかりしなきゃ、もっと前向にならなきゃ、と思いました」
壊れかけた母と娘の絆をがんが結び合わせた
阿南さんがそう感じたのには、理由があった。それは、長年にわたる母との確執である。
家庭の事情で、母は45歳のときに印刷会社を起業。仕事は多忙を極め、阿南さんが幼いころから家を空けることが多かった。そんな母に対して、阿南さんは反発を強めていった。思春期を迎えると、母と娘の確執は激しさを増し、阿南さんが就職しても、いったん離れた母娘の距離が縮まることはなかった。それだけに、がん発症以来の母の変化に、阿南さんは深く感じるところがあったのである。
一方で、術前化学療法も効果を上げつつあった。だが、手術日が近づくにつれ、阿南さんは恐怖と不安に苛まれるようになった。
(手術すれば、もう子供が産めなくなる。でも、子宮を残せば自分ががんで死んでしまう。23歳の自分が、どうしてそんな選択をしなきゃいけないんだろう。そこまでして、生きていく意味があるんだろうか)
阿南さんが自宅を飛び出したのは、手術入院の前日のことだ。東京行きの新幹線に乗り、借りているアパートの部屋でひたすら泣いた。母からの電話をとらずにいると、今度は携帯メールに着信があった。
〈母さん、ごめん。東京に来ちゃった。りえ、手術する覚悟ができてないねん。手術がどうこうじゃなくて、子供を産めなくなることに対して。入院までには戻るから、それまで1人にしてほしい〉
〈りえ、信じられないけど東京なのですね。(中略)必ず帰って来て下さい。人間、生きてるだけで丸儲け。子供が産めない人でも、親の愛情が受けられない子供のために、きっと何かしてあげられるとお母さんは思います。(中略)りえのことは、お母さんの命があるかぎり応援したいと思います。思いきり力いっぱい笑えるときまで、がんばってくれませんか。お母さんとお父さんのためにも〉
母が渾身の思いで綴った、娘へのメッセージ。その言葉に、阿南さんは、凍てついた心がみるみる溶かされていくのを感じた。
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