在宅ホスピスを支えてきた看護師が、命を終えようとする今、思うこと
見守ってくれてありがとう「ちゃんと死んでみせるからね」

取材・文:吉田燿子
発行:2012年6月
更新:2013年8月

  
辛島幸子さん

辛島幸子さん
(看護師)

からしま さちこ
1940年福岡県小倉生まれ。看護専門学院を卒業後、63年東京慈恵会医科大学付属病院に就職。70年より旭硝子千葉工場診療所等を経て、1児を育てながら病院勤務。16年間勤務した総合健康保険多摩健康管理センターを定年退職後、介護老人保健施設やデイサービス勤務。2011年病気のため退職

東京・立川の公団住宅で、今、1人のがん患者さんが終末期を迎えている。
辛島幸子さん、71歳。看護師として勤務しながら、長年、在宅ホスピスのボランティア活動に取り組んできた。
「家庭で死を迎えられる世の中」を目指した彼女の生き方に共感したくさんの人が支え、見守っている

最期は自宅でみんなに見守られて

辛島幸子さんが進行性の悪性リンパ腫を発症したのは、昨年の夏。抗がん剤治療を行ったが再発し、最期のときを家で過ごすことを希望し、自宅に戻った。看護師経験を生かし、ボランティアで多くのがん患者を支えてきた辛島さん。患者会「ブーゲンビリア」や「多摩ホスピスの会」など、さまざまな場で患者のサポートに力を尽くしてきた。今は自らが患者となり、多くの人々に見守られながら、自宅で最期の日々を過ごしている。

「あなたはたくさんの人を支えてきたのだから、今度はあなたがお世話になりなさい」

ある人が辛島さんに言ったこの言葉が、すべてを語り尽くしている。

大学病院で看護した終末期の患者たち

辛島さんは1940年、6人兄弟の3番目として福岡県で生まれた。5歳のときに終戦。

「当時は日本中が貧乏でした。大変な時代のなか、子ども心に『人は職業をもたなきゃいけない』と思うようになったんです」

看護師を志し、社会保険小倉記念病院の付属看護学校に進学。63年に東京慈恵会医科大学付属病院に就職した。

東京で先進的な看護や医療を学べるのではないか──そんな期待は、苛酷な現実の前に打ち砕かれた。当時は、患者の権利など話題にもならなかった時代。配属先の混合病棟で、辛島さんは、がん患者のおかれた厳しい現実に直面することとなる。

「骨肉腫の患者さんが、事前説明も受けずに足を切断されることもあれば、上顎洞がんの患者さんが眼球まで摘出されることもありました。勤務していた病棟では頭頸部がんの治療をしており、顔のない患者さんも多かったんです」

一方で、多くの終末期の患者を看取った経験が、辛島さんの人生に大きな影響を与えたのも事実だった。

「私はターミナルの人をケアするのが好きでした。死にゆく人の言葉の1つひとつが、ビンビンと胸にひびいてきたから。『あなたは優しいから、今日死ぬわね』と言って、私が夜勤の日、1晩に3人の患者さんが亡くなったこともあるんです」

叔母と従妹を世話し最期を看取った8年間

20代で目の当たりにした、あまりにも多くの死。臨床で疲れ切った辛島さんは、30歳のとき、病院を退職。工場の診療所等の勤務などを経て、その後も育児のかたわら、看護師としての仕事を続け、84年から立川の多摩健康管理センターに勤める。

総合健保多摩健康管理センターに勤めていたころの辛島さん。50歳ごろ

総合健保多摩健康管理センターに勤めていたころの辛島さん。50歳ごろ

勤務先のデイサービスで行った夏祭りのイベント

勤務先のデイサービスで行った夏祭りのイベントで。「60代のころですけど、『今が旬の辛島幸子』って書いてあるでしょ」と辛島さん

一方で、辛島さんはターミナルケアへの関心をさらに深めていった。それは、自分自身の経験も大きい。

89年、認知症の叔母と暮らす従姉が脳梗塞で倒れた。昏倒したまま渋谷のマンションで発見されたのは、2日も経ってからだった。重度の後遺症を抱えた。だが、故郷の親戚には2人を引き取ろうという人はいない。辛島さんは、自宅近くの病院と特養に2人を引き取り、仕事をしながら面倒を見ることにした。叔母は5年間、従姉は8年間生き、辛島さんに看とられて息を引き取った。

現代人の死とは、これほど孤独で悲惨なものか──叔母と従姉の死を目の当たりにして、辛島さんは慄然とした。この経験が、終末期ケアに取り組む原動力となったことはいうまでもない。辛島さんは後にこう書いている。

〈家庭で死ぬことが、難しくなっている。(中略)家族は死にいく人の看取り、見送るすべを知っていないし、その力がない。(中略)自分が、生かされた時間の中で出会った多くの経験をフルに生かして、そばにじっと寄り添い、根気よく傾聴しながら、逝く人と共に過ごしたいと考えています〉(オリーブ通信第60号)

剣詩舞の舞台で戦記物を舞った

剣詩舞の舞台で戦記物を舞った。仕事に、子育てに、ボランティアに、活動的な辛島さんは、多趣味な人でもある

吟詠大会を前に

吟詠大会を前に。「詩吟は、もう30数年やっています」

ボランティアで患者支援や在宅ホスピスに取り組む

辛島さんが本格的に終末期の問題に取り組み始めたのは、90年。医師の西村文夫さんが中心となって発足した「終末期を考える市民の会」に参加したのがきっかけだった。その後、同会から派生した「多摩ホスピスの会」にも参加。シンガポールで乳がん治療と乳房再建を体験した、内田絵子さんと出会ったのは、98年のことだ。この出会いがきっかけとなり、2004年、「NPO法人ブーゲンビリア」の会発足と同時に、理事として参加。看護師としての立場から、患者会の活動に深くかかわっていくことになる。

折しも、医療界では、がんの告知が行われるようになったばかりのころ。医師や看護師の配慮に欠けた言葉に傷つく患者は多く、患者会は、泣きながら苦痛を訴える患者たちの怨嗟の声であふれていた。その背中をさすりながら、医療者である辛島さんは「ごめんね、ごめんね」と繰り返した。

「私も仕事が忙しくて、同じことをしていたかもしれないわ。悪かったわ、許してね」

医療者を代表して私が謝ることが、私の使命なのだ──そんな思いでいっぱいだった。

医療者として背負った重い十字架

「私は本当は、哲学者か宗教学者になりたかったの。看護師は生死にかかわる仕事ですから、そういう素地はあるんです。だけど、罪もいっぱい犯すの」

辛島さんは告白する。

ある精神病院に勤めていたときのことだ。アルコール中毒患者の診療中に医師が薬を注射すると、患者は目の前で死んでしまった。医療過誤だ。婦長からは口止めされ、辛島さんは翌日から病院に行けなくなった。患者の家族からは猛抗議を受けたが、結局はうやむやにされた。

「昔は脳外科手術を受けると、植物人間になる人も多かったの。患者さんの人工流産の処置を手伝ったこともありました。患者さんのためにと思って仕事をしてきたけれど、医療者ゆえに犯した罪もある。その意味では、この職業は重いんです」

今も眠れないときは、過去の記憶が甦る、と辛島さんは言う。消したくても消せない、苦い思い。背負った十字架の重さをかみしめながら、辛島さんはホスピスや患者会の活動にのめり込んだ。多摩ホスピスの会では会長を務め、在宅ケアにも精力的に取り組んだ。看護師としての経験をフルに生かし、辛島さんは、再発の不安におびえる患者や終末期の患者を励まし、支え続けた。


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