8回手術を受け、2度声を失いながら、がんと闘い抜く現役医師
がんとの闘いに挫けそうなときは私を思い出してほしい
(整形外科医)
あかぎ いえやす
1957年岡山県生まれ。85年東海大学医学部卒業後、日本大学医学部整形外科学教室入局。国立立川病院、公立阿伎留病院、春日部市立病院などを経て、93~95年日本大学救命救急センター勤務。96年板橋区医師会病院整形外科部長、2000年永生病院・整形外科部長を務め、03年10月同副院長に就任、現在に至る。著書に『癌!癌!ロックンロール~金髪ドクター、6度の癌宣告&6度の復活』(産学社)
東京・八王子にある永生病院。ここに、「金髪先生」として親しまれる整形外科医がいる。赤木家康さん、54歳。咽頭がん、舌がん、食道がんの再発など、8度もがんと闘いながら、診療やバンド活動を続ける、異色のドクターだ。
何度再発しても病気と闘い続ける理由
赤木家康さんは47歳で咽頭がんを発症し、4年半後に舌がんを発症。その後わずか1年7カ月の間に、舌がんの再発や食道がん、咽頭がんの再発など7つのがんを経験した。再発を繰り返し声を失っても、そのたびに不屈の闘志で立ち上がる赤木さん。その姿は多くの患者に希望と勇気を与え続けている。
「がん細胞は自分の体の細胞から生まれてきたもので、誰を恨むわけにもいかない。病気になったら、『病気と闘う』『あきらめる』『つきあう』という3つの選択肢しかありません。くよくよ悔んだり落ち込んだりしても、メリットはないのです。ですから、思い残すことがないよう、患者さんのために仕事をし、人生を楽しみたい。やりたいことをやるのも、そのためです」
年間200件の手術をこなすカリスマ・ドクター
江戸時代から続く岡山の商家に生まれ、外科医として活躍する叔母の姿に憧れて育った。
1浪の末、東海大学医学部に進学。ロックバンドの活動に熱中しすぎて留年の憂き目にあったが、ライブ活動を封印して、医師国家試験に1発合格。卒業後は、日本大学医学部整形外科学教室に入局。医師の仕事の厳しさを実感した赤木さんは、必死に勉強し、整形外科医の知識と技能を修得。43歳のとき、永生病院の常勤整形外科医として、新病棟の立ち上げに尽力することとなった。
寝る間も惜しんで仕事をするうちに、赤木さんはいつしか、年間200件以上の手術をこなす"カリスマ・ドクター"として知られるようになっていった。03年には副院長に昇進したが、一方では、仕事上のストレスや軋轢に悩まされるようになった。しだいに喫煙量や飲酒量が増え、赤木さんは脱力感や疲労感に苛まれるようになっていく。
47歳で病期4の咽頭がんを発症
ついに体が悲鳴を上げたのは、47歳の2005年10月のこと。空咳が出るようになり、声のかすれや右頸部の腫れも気になり始めた。仕事に忙殺され、なかなか病院に行けずにいたが、たまたま予定していた手術が中止になり、友人の耳鼻科開業医を受診。その紹介で、12月14日東海大学医学部付属八王子病院で、内視鏡検査を受けた。このとき、担当医が「ああ」という嘆息を漏らしたのを聞いて、赤木さんはがんであることを直感。病理検査の結果は、下咽頭がんだった。
「告知を聞いたときは、全く平常心でした。ただ、できるだけのことをして治さなければと思いました」と、赤木さん。「病気になってしまった以上、あれこれ悔やんでもしかたがない。今やるべきことをやるしかない」と覚悟を決めた。
紹介状を持参して、癌研有明病院頭頸科部長の川端一嘉さんのもとを訪れたのは、その翌日だ。川端医師はこう言った。
「手術で切除する方法と、放射線と抗がん剤で腫瘍を小さくしてから手術する方法があります。どちらを選びますか」
もし手術すれば、喉頭も一緒に摘出するので、声を出すことはできなくなる。しかし、リンパ節転移のある進行がんを抱えて、年を越す気にはなれなかった。赤木さんは迷わず手術を選択し、12月22日に手術を受けた。
「自分の命はかけがえのない、ただ1つのもの。その命を守るためなら、どのような機能障害を負うことになってもかまわない。命があれば、また医者として患者さんの役に立てるかもしれないと思ったのです」
手術は16時間にわたる大がかりなものだった。咽頭と喉頭、頸部食道を全摘し、食道の部分に空腸を移植。摘出したリンパ節のうち、7個から転移が見つかった。幸い、遠隔転移はなかったが、術後は今までに経験したことのない痛みに襲われた。
モニター音とアラーム音だけが鳴り響くICUにいると、時間の感覚もなくなる。耐えがたい激痛が続き、幻覚に悩まされるようになった。
「これがICU症候群か」
医師としての冷静な意識が、患者である自分を見つめる。膨大な数の手術をこなしながら、患者の苦しみを自分はほとんどわかっていなかった。ICUの中で必死に苦痛に耐えながら、赤木さんは苦い思いをかみしめていた。
シャント手術により仕事への早期復帰を果たす
06年1月下旬から3月初旬にかけて、30回の放射線治療が行われた。それが終了してから、術後の補助化学療法が始まるまでには、1カ月ある。赤木さんは不安に駆られて、じっとしていることができなかった。
かつて経験したことのない抗がん剤治療。そして、「5年生存率30%以下」という非情な現実。不安を打ち消すように、温泉や海外有名アーティストのコンサートに足を運んだ。幸い、手元には、生命保険の生前給付金がある。赤木さんは憑かれたように、高額のコレクター向けギターやAV機器を買いまくった。
4月中旬、シスプラチン(*)、5-FU(*)、タキソテール(*)の3剤併用療法による抗がん剤治療がスタート。最初の1週間を過ぎると、なんともいえない全身の倦怠感とひどい口内炎に悩まされるようになった。
当初、化学療法は4~6回の予定だったが、副作用があまりにつらく、赤木さんは主治医に中止を打診した。経過がよかったこともあって、化学療法は2回で終了。
こうして治療は一段落したが、問題は、声帯がない状態で社会復帰ができるかどうかである。赤木さんは4月から、喉頭摘出者の発声訓練団体に参加して発声トレーニングを始めていた。これは、空気を飲み込んで食道にため、ゲップの要領で発声するという方法だ。発声のコツはすぐに覚えたものの、仕事をするには、とても満足のいくレベルとはいえない。
そこで、8月中旬、食道発声をしやすくするための「シャント手術」を受けた。シャント手術とは、気管支と食道の間に穴を開けてプロヴォックスという機器を挿入し、気管の空気を食道に送って声を出す方法である。この手術により、喉頭摘出術後1年を待たずに仕事に復帰。11月下旬、外来診療を再開した赤木さんにひと目会おうと、旧知の患者が大勢詰めかけた。感涙にむせぶ患者の姿を見て、赤木さんはしみじみと幸せをかみしめた。
「医師としての自分を、こんなにも必要としてくれる患者さんたちがいる」
その感動は、赤木さんのその後も続く闘病生活を支える、パワーの源泉となっていく。
*シスプラチン=商品名ブリプラチン、ランダ
*5-FU=一般名フルオロウラシル
*タキソテール=一般名ドセタキセル
がんを経験して初めて患者さんの立場に立てた
がんからの生還は、「声を失う」という代償と引き換えのものだった。それが、人一倍活動的な赤木さんにとって、あまりにも大きな犠牲だったことは想像にかたくない。だが、赤木さんは後遺症を「命を守るためにはしかたがないもの」として、淡々と受容した。「病気の人や障害をもった人に対して、自分は一体何ができるのか」──それが、赤木さんの生涯をかけた大きなテーマとなっていく。
「病気になる前の私は、いやな奴でした。患者さんの立場に立っているようでいて、実は自分の立場で考えていたのです。でも、『声が出ない』という障害を負ったことで、人は誰しも何らかの障害を負って生き、いつかは死んでいくことを知った。それに気づいたことで、患者さんのことを心底思い、患者さんの立場に立てるようになりました」
整形外科的な体の痛みや不調の背後には、ときとして、心の痛みやうつが隠れていることがある。にもかかわらず、以前の赤木さんは、それを探ろうとしなかった。
「がんになって、『自分が生き残れたら何をしたいか』と考えたとき、『患者の役に立ちたい』と心から思いました。自分が1番やりたいのは、患者さんに寄り添うことだと確信したのです」
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