大腸がんを体験し見出した「美味しくて安心して食べられるお菓子」への道
「お菓子を食べられる幸せ」を届けるのが私の使命です
(料理研究家)
しげの さわこ
学生時代より料理研究家上野万梨子氏に師事し、アシスタントとしてフランス料理を学ぶ。27歳で渡仏、「ル・コルドン・ブルー」「エコール・ド・ルノートル」に留学。パリとトゥールでレストラン修行を経て帰国。
1991年横浜・元町にフランス料理とお菓子の教室「Cent-Kleber」を開講。フリーの料理家として雑誌や広告撮影、カフェメニューの開発も手がける。2007年焼き菓子のアトリエ「Café Rico」をオープン
美味しいものが大好きな料理研究家が、大腸がんと診断され、手術。「もう、甘くてバターたっぷりお菓子は食べられない」。一時は、自分にそう言い聞かせて絶っていたスイーツだが、ふとしたきっかけで、気持ちが変わった。体調が悪くて、美味しいものを我慢している人はたくさんいる。
ならば、ヘルシーで安心して食べられる「本当に美味しいお菓子」を、自分が作ろうと。
体調が悪くても美味しくて安心なお菓子の店
横浜の山下公園や中華街に近い石川町駅から歩いて1分。階段の途中にあるお地蔵さんの懐に抱かれるようにして、その店はあった。店の名前は「カフェ・リコ」。ヘルシーな焼き菓子が売り物のスイーツ専門店である。
この店のオーナーは、料理研究家の重野佐和子さん。38歳のときに大腸がんを発症し、手術を受けた。1年間療養した後、仕事を再開。以来、「体調が悪くても美味しく食べられるお菓子」を追求し続けてきた。
「カフェ・リコ」の焼き菓子は、バターやチーズ、牛乳などを使わず、体に負担の少ない油や砂糖、豆乳などを厳選して使用。それでいて、焼き菓子本来の香ばしさや歯触りを損なわないよう、さまざまな工夫がなされている。滋養がある干し果物がたっぷり入った「おからマフィン」を口に含むと、ほっこりとした滋味のある味わいが口のなかに広がった。
「乳製品アレルギーで、『子どものためには牛乳を使ったケーキを作っても、自分では食べられない』というお客様も、「カフェ・リコ」のケーキなら安心して食べられると喜んでくださいます」
「カフェ・リコ」の焼き菓子のもう1つの特徴は、健康によい食材が使われている点だ。
「生姜入りのケーキは体がポカポカしてくるし、おからマフィンは食物繊維が多いので、食べた次の日のお通じがいいと評判です。胡麻のケーキも、体にいい胡麻がたっぷり使われているので、『幸せな気分になれる』とおっしゃる方も多い。美味しいものに健康という付加価値をつけると、それだけで幸せ度がアップするんです」
38歳で経験した突然の下血
横浜で生まれ、グルメの祖父の影響で、幼いころから美食に親しんだ。学生時代から料理研究家の上野万梨子氏に師事し、卒業後はアシスタントとして料理の世界に飛び込んだ。大好きなフランス料理のことをもっと知りたくなり、27歳のとき渡仏。有名な「ル・コルドン・ブルー」と「エコール・ド・ルノートル」に留学し、本場の料理と菓子作りを学んだ。
「パリで感じたのは、料理を楽しむ心や、見せ方のうまさ。日本では味わえないような、刺激的な素材の組み合わせに出合うことができました。今は、技術とセンスを兼ね備えた日本人シェフやパティシエも増えてきましたが、当時は『やっぱり違うなあ』と感じましたね」
パリとトゥールのレストランで修業し、2年後に帰国。横浜・元町でフランス料理と菓子の教室を開講した。そのかたわら、フリーの料理研究家としても活躍。「マダム」や「オレンジページ」、「レタスクラブ」、「栄養と料理」といった雑誌の料理制作を担当し、大手食品メーカーの広告撮影やカフェメニューの開発などの仕事も手がけた。
重野さんが体調に異変を感じたのは、38歳のとき。疲労がたまり、「ちょっと休みたいなあ」と感じていた矢先のことだった。11月初旬、トイレで用を足すと、便器が真っ赤に染まった。人生で初めての下血。動転した重野さんが、通院中のカイロプラクティック院で相談すると、
「それは普通じゃないね。この足で肛門科に行きなさい」
そう言って、近くの肛門科・M病院を紹介してくれた。痔の専門病院だったこともあって、医師の診断は「痔」。だが、3回目の外来を担当した若い女医は、病状を不審に思ったのか、重野さんに内視鏡検査を受けることを勧めた。
内視鏡検査で大腸がんが発覚
大腸の内視鏡検査を受けたのは12月11日。検査中にモニターを見上げていると、突然、画面が真っ赤になった。
「S字結腸のところに何かあるようです。他の病院を紹介するので、そこで精密検査を受けてください」
血に染まった大腸を目の当たりにして、重野さんは言葉を失った。あまりの衝撃に、失神寸前でベッドに倒れ込んだ。
「大変な病気かもしれない。どうしたらいいんだろう──」
頭の中で、そんな思いがグルグルと駆け巡っていた。
その日から、事態はジェットコースターのように急転回で動き出した。医師からは県内の大学病院など3つの病院を紹介されたが、重野さんには別の考えがあった。万一、がんだったときのことを考えて、最新の設備と医療技術を備えた専門病院で診てもらいたいと考えたのだ。
「知り合いにがんの専門医がいます。その人あてに直接、紹介状を書いてもらえませんか」
渋る医師を説得して、がん専門医である友人の夫あての紹介状を書いてもらい、その足で友人の家に向かった。
「可愛いがんだから、大丈夫だよ」
検査画像を見た友人の夫であるその医師は、そう言って重野さんを励まし、築地の国立がん研究センター(当時)に紹介状を書いてくれた。
その4日後、築地のがんセンターの大腸外科を受診。大腸内視鏡や大腸造影検査、血液検査を行い、遠隔転移の有無を調べるため、心臓や肺など他臓器の検査も受けた。詳しい検査結果が明らかになったのは、翌年1月初旬のことだ。
「明らかにがんです。手術日が決まったら入院してください」
主治医は事実だけを淡々と告げた。がんを告知されたにもかかわらず、重野さんは意外なほど冷静だった。ここを訪れたときから、「9割9分がんだろう」と覚悟していたからだ。早期発見であれば生存率も高まるが、それだけに、病状の進行と転移の有無が気になる。
「肝臓や肺には、遠隔転移は見受けられません」
このように告げた主治医の言葉だけが救いだった。
術後の激痛に苦しめられて
「私はなぜ、大腸がんになどなってしまったんだろう」
がんの告知を受けてから、重野さんはそう自問自答するようになった。大腸がんの罹患年齢は60代が多い。30代という若さで、なぜ大腸がんを発症したのか。重野さんはどうしても納得できなかった。
「ヨーグルトにはがんの予防効果があると言いますよね。私はヨーグルトをよく食べているのに、どうしてがんになったんですか」
「ヨーグルトを毎日500グラム食べたとしても、がんの予防にはなりません。ずっと食べ続けていれば、腸の調子はよくなるかもしれませんが」
「私はこんなに若いのに、どうして大腸がんになったんですか。美味しいものばかり食べていたからですか」
「運が悪かっただけです。ちゃんと切って治しましょう」
主治医の赤須孝之さんは、どんな質問にもきちんと答えてくれた。そんな主治医の態度に信頼感を覚え、自分は最善の方法を尽くしていると実感できた。
そうするうちに、ジェットコースターのように揺れていた心も、不思議と鎮まっていく。
「泣いてもしかたがない、やるべきことをやるしかない。手術したら、きっとがんから解放されるはず」
重野さんはそう信じた。
1月16日、開腹手術により大腸がんを摘出。手術の結果、リンパ節に転移が見つかったが、「肉眼で見えるがんはすべて切除した」と説明を受けた。
だが、開腹手術ということもあって、術後は猛烈な痛みが襲ってきた。
「痛い、痛い。痛み止めをください!」
あまりに叫び続けたせいで、「こんなに痛がる患者さんはいませんよ」と看護師に言われるほどだった。「今日はこれ以上、痛み止めは入れられません。痛いのは若いからですよ」と、医師には痛みを抑える手段をとってもらえなかった。痛みで意気消沈したが、幸い経過はよく、1月末には退院することになった。
再発予防のための抗がん剤を拒否
このとき重野さんは、後の語り草となるエピソードを残している。
折しも、がんセンターでは、大腸がん手術を受けた患者を対象に、「補助療法として抗がん剤を投与するグループ」と「投与しないグループ」の2つに分け、抗がん剤の再発予防効果に関する比較試験を行っていた。重野さんは前者のグループに入れられ、退院時に経口抗がん剤を処方された。
だが、いざ退院というときに、突然「抗がん剤を飲んでください」と言われても、「ハイ、やります」とは到底言えない。今でこそ、大腸がんの3期以上の人には、再発予防の抗がん剤治療を行う意義が確かめられ、リスクの高い2期の人にも考慮されるが、その当時はそういったエビデンス(科学的根拠)もなかった。
重野さんとしては、再発予防のために抗がん剤を服用することの意義に疑問を感じていた。抗がん剤の副作用には、口内炎もある。これは、料理を生業とする重野さんにとっては、最も歓迎すべからざる副作用だった。
「次回の外来までに、次の治療のことを考えさせてもらってもいいですか」
そう言って、そのまま退院。1週間後の外来時に、
「抗がん剤をやった場合とやらない場合で、効果はどのぐらい違うんですか」
そう尋ねたが、明確な答えは返ってこない。確たる保証がないのなら、起こるかどうかもわからない再発を予防するために、副作用のある抗がん剤を飲む気にはなれなかった。
結局、抗がん剤治療は受けないことに決めた。
退院後、1カ月間休んでいた料理教室を再開。だが、4月になってもおなかの痛みが消えず、ひどい便秘が続いた。5月には手術の後遺症で腸閉塞を起こし、2週間入院することに。
「本当におなかが痛くて、死んでしまうのではないかと思いました。まるで腸が窒息したみたいに、カチカチに固くなって動かなくなるんです。お腹が痛いのに、リハビリで病院の中を歩かなくてはならないし……本当に苦しかったですね」
体調がなかなか回復せず、再び仕事を休業。単発の雑誌の仕事だけは再開していたものの、1年間、療養に専念することを余儀なくされた。
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