「がんは怖くなかった。すべてを剥ぎ取られ、生き方が変わった」
人のために働ける幸せが見えた「日本縦断の旅」
(建設業)
ふくざき やすお
1978年甲南大学理学部生物学科卒業。2005年舌がんの病期2と診断され、手術、放射線、化学療法などの治療を受ける。2007年4月、沖縄を出発点に日本縦断の旅に出る。「憲法第9条」を守ることをかかげ、ゲゲゲの鬼太郎の「ねずみ男」のふん装で国道を歩き、2008年6月北海道宗谷岬に到達
舌がんの治療を経て、日本を縦断する徒歩の旅に出た男性がいる。
1日50km、国道沿いを歩き、夜は野宿の日々。
途中、療養を挟みながら、足かけ1年3カ月にわたる旅。
「憲法9条を守るねずみ男の旅です」と、本人は笑う。
借金、離婚、がん闘病……波乱万丈な半生をもつ彼を、奇想天外な旅に踏み出させた思いは何か、そして、いま彼は何を見つけたのか。
継いだ会社が倒産億単位の借金を抱える
舌がんと診断され、治療をした後、日本列島を歩いて縦断したという福崎裕夫さん。しかも、ほとんどを野宿で旅している。駅舎や公園、公衆トイレなどの軒を借り、寝袋で眠ったという。さぞかしパワフルな人だろう。福崎さんに話を聞くため、自宅のある広島県府中市上下町へ急いだ。
初対面の福崎さんは、とても"冒険家"には見えない。雰囲気は何かの研究者だ。
「東南アジアやアフリカで、猿か鳥を追いかけて暮らしたいと思ったこともあります」
甲南大学理学部生物学科を卒業後、京都大学霊長類研究所の聴講生になった。1年後に試験に落ち、高校教師になるが2年で退職。規則で縛られた学校の体質が合わなかったようだ。その後、上下町の町議会議員を14年務めている。
「でも、借金が5億円あるんです」
と、衝撃的なことを言う。
「一生返せないという意味では、1億も5億も変わりません。返せないけど逃げていない、というところです」
福崎さんの父親は1代で土木舗装工事会社の「神甲舗装」などを築いたやり手だった。だが、膨大な借金を残したまま、2000年7月に亡くなった。その後、福崎さんが後を継いだ2年後のこと──。
「神甲舗装グループ破産 3社で負債総額29億円」(「中国新聞」2002年8月1日付)
新聞に見出しが出る大型倒産だった。
「自分が社長に向いていないことも、長男として継ぐ義務がないこともわかっていたんです。でも、逃げるのが下手なんですよね。会社を継いだ時点ですでに金融機関からの融資はストップしていました。確実に沈み始めている船を、おめでたいことにいただいて船長なったのが私なんです」
過去を包み隠さず、淡々と時折ユーモアをまじえて語る福崎さん。倒産、借金、離婚、がんという大病……。いわゆる「中年クライシス」を福崎さんは、経験している。
病期2の舌がんさまざまな治療を実施
最後の苦難が、舌がんだった。
精密検査を受けていれば、もっと早く発見できていたのかもしれない。口のなかの異変を最初に告げたのは、近所の歯科医だった。倒産前にも検査をすすめられていたが、騒動の渦中にそんな余裕はなかった。
「虫歯の治療に行ったとき、倒産劇を知る歯医者さんが『今度こそ行ったほうがいい』と。本当に感謝しています。それがなければ、もっとほったらかしだったと思います」
近所の総合病院で診察を受け、広島大学病院を紹介される。まるで旅にでも出るように単身、自宅から100kmほど離れた広島市へ向かった。
「渡世人が宿でも借りるように荷物1つ抱え、『紹介を受けてきました』と入院しました」
精密検査の結果、「病期2の舌がん」と告知された。だが、ほとんどショックは受けなかったという。
「倒産して大勢の社員のクビを切り、路頭に迷わせています。正直、自分のクビ1つならまだいいか、と。ただ3女が中学3年生だったので、20 歳まで何年かは数えましたね。それまで生きんといけんな、とだけは思いました」
05年2月から3カ月間に及ぶ入院期間の最後に頸部のリンパ節も切除している。舌がんでリンパ節転移があれば、病期は3。5年生存率は約60%に落ちてしまう。
実際、さまざまな治療法を福崎さんは試みた。体の外から放射線を照射する「外照射」に始まり、抗がん剤「TS-1」も使った。特別なラジオアイソトープ病室に入り、舌に針のような小しょう線せんげん源を入れる「組織内照射」も5日間行った。さらに、当時はまだ臨床試験中だった免疫治療も行っている。
「リンパ球を増殖させる治療です。治療は無料でした。治験でよい結果が出れば、『今後、同じ病気になった人の役に立つ』と医師から聞き、『それならば、ぜひやってください』と申し出ました」
死の恐怖も感じず入院生活を贅沢に思うほど
つらい治療も、倒産による針の筵むしろのような生活に比べれば、楽なものだった。
「働かずにずっとベッドで寝ていられるので、資格試験の勉強をしました。不思議と死ぬとは思わなかったし、まったく恐怖もありませんでした」
別居していた妻と倒産後に離婚して以来、社長業のかたわら兼業主夫をしつつ、娘たちを立派に育てている。倒産、借金、離婚という危機を立て続けに体験した福崎さんにとって、がんはそれほど怖いものではなかった。幸い、臨むべき治療法がいくつもある。そして入院中は、3食昼寝つき。最高の贅沢だった。病室にいるとき、看護師から食事について尋ねられた。
「普段は、人さまに作っていただいたものを食べることはほとんどありません。だから、『全部おいしくいただいてます』と言うと、看護師さんは返す言葉がなかったようです」
どの治療が奏効したのか。すべての相乗作用なのか。目に見える範囲のがんは消えた。
「後遺症は、舌が火傷状態になったことぐらいでしょう。放射線を当てた舌の右側が縮み、いまも舌はまっすぐに出ません。歯が次第に抜けてしまい、下の歯は総入れ歯です。それでも、食べるのにもしゃべるのにも、さほど不便は感じません。まあ、生きていられれば、それでいい。倒産、借金、離婚といろいろ大変なことがあったけど、がんになったことで、生きているありがたさが感じられるようになったのかもしれない。だから、がんには感謝しているんです」
がんになったことで、福崎さんの生き方そのものが変わっていった。
退院直後に患者会へ地元に支部をつくる
まず、退院した足で、そのまま病院の近くにある広島県医療保健課に向かった。
「患者会について聞きに行きました。病院のなかは静かで、患者さんたちは治療にじっと耐えている。病院から出たら、もう少し楽しめる場所が必要なんだろうなと感じていました。だから、自分のためにというより、世の中に必要なのだろうなと思って、足を運んでみたのです」
がんの患者会「にじの会」が広島市内で開かれることを聞いて、すぐに参加して、患者会のよさを体験した福崎さん。地元の上下町から広島まで100kmあるという話をすると、支部を作るように勧められ、
「早速、翌月、上下町につくっちゃいました」とのこと。
「がん患者には、家族にも言えないことが多いんです。落ち込んだときには、ぐちをこぼしたほうが精神的にもいいし、免疫力も高まるんですから」
その後、地元の「にじの会」は解消。発展して誕生した広島県北部のがん患者会「とま~れ県北」に毎月参加している。
憲法第9条を守る「ねずみ男」の日本縦断
福崎さんは、治療後2年に近づいたころ、日本縦断徒歩の旅に出発する。行脚のスタートは、2007年4月6日、沖縄からだった。もちろん島へは飛行機で入った。足かけ1年以上の行脚の間、病院の検査や仕事、冬の北海道を避けるなどの理由から大きく7回に分けた。「実質2~3カ月」と言い、1日に相当な距離を歩いている。
「野宿なので逆に、宿へ行くなどの無駄な距離を歩かなくてすむんです。普段は1日50㎞ほど歩き、人に会ったり、泊めてもらったときには30~40㎞くらいでしたね」
日本縦断の旅の衣装は奇天烈だった。「ゲゲゲの鬼太郎」(水木しげる作)の"ねずみ男"姿で歩き通したのだ。
「正義のヒーロー鬼太郎だけでは、物語は成り立ちません。嘘をつき、人を裏切り、金に目がくらむ厄介者のねずみ男も必要なんです。僕自身が、まさに厄介者ですから」
ただ、ねずみ男は、灰色のガウンのようなものを着ていなかったか。福崎さんのは橙色だが。
「アニメでは橙色と灰色がほぼ交互になっているんです。9条について話し合うためには、目立ったほうがいいですしね」
全国縦断の直接のきっかけは2006年9月、日本国憲法改正が持論の安倍晋三元首相の誕生だった。改正反対の意思表示として「憲法第9条」の旗を持ち、1人でも多くの人と語ろうと考えたのだ。
「鬼太郎にはゲタや髪の毛針などの武器がありますが、ねずみ男にはありません。非武装で弱い人間の象徴として、ねずみ男を選びました。日本人が崇高だから9条を守るのではなく、私を含め、愚かで何をしでかすかわからんから、その歯止めとして9条が必要なんだと」
がんから生還して何をやるかそこに天命が宿った
命が自分の思いどおりにならないことを福崎さんは、がんになって気づかされたという。
「自分が生かされているのなら、再び議員になったり、金儲けで世間を見返すとかじゃないだろうと。こう思ったら、無計画な野宿の旅に飛び出せたんです」
福崎さんは聖フランチェスコの「私をあなたの平和の道具にしてください」という言葉を例に挙げる。
「修行僧なら自分で欲望や煩悩を捨てる勇気が必要になります。僕の場合は自分の意志ではなく、がんという病によってすべて剥ぎ取ってもらいました。その空っぽになった福崎という人間の器に、9条行脚が飛び込んできた感じなんです」
福崎さんには天命だった。
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