乳房の異変を誰にも相談できなかった3年間の苦悩を語る乳がんサバイバー
弱者になった自分を認めた今、怖いものは何もない
(ふれあいサロン主宰)
ささき さちこ
1940年生まれ。生保会社で育成所長を務めた後、民生委員の仕事やボランティア活動に邁進。2009年、乳がん4期と診断され、右乳房を全摘。骨転移も見つかり、「余命3カ月」と宣告される。現在も化学療法を継続しながらも、ボランティア活動などを再開し、人生を楽しんでいる
ある時は生保会社の育成所長、ある時はギャンブラーとして華やかな世界で活躍してきた佐々木サチ子さん。
だが、乳がんではないかとの疑念を3 年間、誰にも打ち明けられなかった。
孤独に不安と闘い続けるなかで、佐々木さんはがんとどのように向き合い、「笑って生きていきたい」と言えるまでになれたのか──。
誰にも異変を打ち明けられなかった3年間
明るく前向きな性格で、「どうしてそんなに、いつもニコニコしていられるの」と言われるほどの元気印だ。
「笑うことが、がんの最大の薬。自分の寿命は誰にもわからないから、明るく楽しく元気に、笑顔で暮らしていければ本望だと思います」
そう語るのは、東京・立川市に住む佐々木サチ子さん(71歳)。大手生命保険会社の育成所長を務め上げ、退職後は民生委員を務めるかたわら、ボランティアで高齢者向けに食事を提供する「ふれあいサロン」を開いた。常に社会の第1線で活躍してきた佐々木さんが、乳がんの手術を受けたのは、2009年10月のことだ。退院後、乳がん患者会のNPO法人ブーゲンビリアに入会。ときには胸の傷痕も見せながら、自分のがん体験を率直に語っている。
そんな佐々木さんも、自分のがんと最初から素直に向き合えたわけではない。右胸の異変に気付いてから3年以上もの間、病気の影に怯え、受診をためらい続けたという。
「当時は、自分を普通に見せたいという気持ちが強く、弱い部分を見せられなかったんですね。でも、友人や患者会の皆さんのおかげで、気持ちを楽にすることができた。今は自分を受け入れられるようになったと感じています」
長い間、病気のことを誰にも打ち明けられなかった佐々木さんは、どのようなプロセスを経て、自分のがんと向き合えるようになったのか。その紆余曲折の日々を語ってもらった。
生保の育成所長として活躍した現役時代
22歳で結婚し、27歳のとき、大手生命保険会社立川支社の営業所のセールスレディに。定年で退職するまで、育成所長として保険営業と人材育成に携わった。多い月には個人で2億円ものノルマを抱えながら、職員の育成や営業所全体の売上目標達成に追われる日々。プレッシャーは相当なものだったが、 それだけにやりがいも大きかっ たという。
「お隣に回覧板を持っていくだけでビクビクしていた」うら若き女性が、夜討ち朝駆けの営業やクレーム対応で鍛えられ、いつのまにか"親分肌"に。キャリアウーマンとして活躍するかたわら、私生活では"ギャンブラー"として鳴らした。定年前の12年間はカジノの魅力にはまり、毎週のように夫と韓国のカジノに通い詰めたという。
一方で、生保の育成所長という職は、終わりなきストレスとの闘いでもあった。
「延べ200人以上の新人育成を手がけましたが、必ずしも全員がセールスレディとして育つわけではない。また、売上目標も厳しく、数字に追いかけられる生活と対人関係のストレスは、相当なものでした。今思えば、それが病気の原因だったのかもしれません」
58歳で定年退職すると、民生委員を務めるかたわら、ボランティアで「ふれあいサロン」を主宰。シルバー人材センターの紹介で、百貨店のクロークの仕事も始めた。パッチワークなどの趣味も楽しみながら、第2の人生を満喫していた佐々木さんが、右乳房のしこりに気づいたのは2006年のことだ。
「乳腺にできものでもできたのかなと思い、そのまま放っておきました。ただ、気にはなっていたんでしょうね。07年1月の日記には、『今年は厳しい年になる』と書いてある。このころには、乳がんではないかと気づいていたのだと思います」
受診をためらううちに病状が進行
病院に行ったほうがいいのではないか──。そう思いつつも、佐々木さんはなかなか乳腺外科を受診しようとはしなかった。事実を知ることへの恐怖と、生活設計上の心配。そのダブルパンチで、自縄自縛の状態に追い込まれていたのだ。
実は、佐々木さんは定年と同時に家を新築し、59歳から75歳までの住宅ローンを組んでいた。だが、がんとわかれば、年金のなかから治療費を捻出しなければならない。そのためには、銀行にかけ合い、住宅ローンの返済期限を75歳から80歳まで延長してもらう必要があった。
しかし、1度がんと診断されてしまえば、住宅ローンの変更ができなくなる恐れがある。
(がんの告知を受ける前に、住宅ローンの変更手続きを終わらせなければ。それが片付いたら、病院に行こう)
そう自分に言い聞かせたが、ローンの手続きが終わったころには、5月の風が吹いていた。その間にも病状は確実に進行していく。右胸にザクロの花が咲いたようになり、血膿がにじむのを防ぐため、胸にガーゼを当ててしのいだ。住宅ローンの問題は解決したものの、病院に行く決心は一向につかない。家族にも誰にも不安を打ち明けられず、1人で抱え込むほかはなかった。
膝の痛みを機に受診。ついに受けた乳がんの告知
逡巡に逡巡を続ける佐々木さん。受診のきっかけは、以前からあった膝の痛みがひどくなってきたことだ。6月、近所のクリニックで診てもらったところ、診断は「膝関節症」。釈然としない結果に、佐々木さんはセカンド、サードオピニオンを求めて整形外科を回った。異変が見つかったのは、4軒目のクリニックを訪れたときのことだ。
「レントゲンに雨だれのような影が見えます」
急きょ、地元の総合病院であるT病院を紹介され、整形外科を受診。検査結果を見て、医師はこう言った。
「ほかにおできがなければ、心配は要りませんよ」
──先生、実は私、右乳房にできものがあるんです!
その言葉が喉元まで出かかったが、結局、口に出すことはできなかった。やはり、私は乳がんなのだ──。そう直感した佐々木さんは、帰宅後、身辺整理にとりかかった。公私の連絡や用事を片付けてから、自分のことを考えようと思ったのだ。
「身辺整理で忙しくしていたのは、『これで入院したら、もう家には帰れないかもしれない』という気持ちがあったから。たぶん、一時的にでも病気を忘れるために、忙しいふりをしていたのね。不安で眠れない夜が続きましたが、誰にも相談せずに放っておいた自分の責任。『これも人生だな』と思っていました」
「5年生存率5パーセント」に叩きつけた挑戦状
佐々木さんがようやく娘に事実を打ち明けたのは、9月24日のことだ。娘に懇願され、翌日、T病院の皮膚科を受診。乳腺外科ではなく皮膚科を受診したのは、「がんを認めたくない」という最後のあがきだった。
「これは皮膚科の受け持ちではありません」
その場で乳腺外科を紹介され、検査を実施。その3日後、娘夫婦に付き添われて病院で検査結果を聞いた。
「ステージ3、と言いたいところですが、ステージ4です」
余命3年、5年生存率5パーセントと告知され、目の前が真っ暗になった。だが、佐々木さんは気丈にふるまい続けた。
「私、負けないよ。絶対にその5パーセントの内に入るから」
きっぱりと宣言したものの、心の中は不安で押しつぶされそうだった。病気を隠し続け、病状を進行させてしまったことへの、自責の念が押し寄せた。
10月13日に手術を行い、右乳房を全摘。リンパ節もほぼ全て切除した。乳房からは最大4.5センチの腫瘍をはじめ、複数の腫瘍がみつかった。佐々木さん本人には伏せられたが、手術に立ち会った家族は「余命3カ月」と告知されたという。
幸い、術後の痛みはさほどでもなかったが、10日目ごろから、首に痛みを感じるようになった。身体をちょっと動かすだけで、激しい痛みが突き抜ける。これは骨転移ではないのか──。再び不安に苛まれ始めた佐々木さんに、乳腺外科の主治医はこう言った。
「そろそろ、退院してもいいですよ」
「いいえ先生、私、退院できません。首が痛いのでMRIを撮ってください」
「リンパ節を切除したときに、筋肉を引っ張った状態で縫っています。それで痛いのではありませんか」
「いや、それとは痛さが違いま す。別の原因だと思います」
主治医が折れる形で、院内の整形外科でMRIと骨シンチ検査(*)を実施。案の定、骨転移が見つかった。
「第4頸椎が、がんでつぶされている。このまま放っておいたら手足が麻痺します」
整形外科医の言葉に、佐々木さんは覚悟を固めた。かくなる上は、新築した家を売ってでも、福島県で陽子線治療を受けよう──。だが、「今、佐々木さんを動かしたら、頸椎が麻痺して動けなくなる」と言われ、断念。とりあえず、11月半ばから全10回の放射線治療がスタートした。
*骨シンチ(骨シンチグラフィ)検査=放射性医薬品を使う骨の核医学検査で、がんが骨に転移していないかを調べる
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