治療法の選択で心揺れた日々。情報の渦のなかで決断 子宮頸がんのつらい治療と後遺症を乗り越え、レストラン開店の夢を実現 料理研究家・パンツェッタ貴久子さん

取材・文:吉田燿子
発行:2011年3月
更新:2018年10月

  
パンツェッタ貴久子さん

ぱんつぇった きくこ
1986年、イタリアに渡り、磁器学校に留学。88年、パンツェッタ・ジローラモさんとの結婚を機に帰国。夫とともにイタリアについて紹介するほか、イタリア家庭料理教室の主宰を務める。07年に子宮頸がん発症するも、08年、イタリア家庭料理店「コチネッラ」をオープン。

子宮頸がんのつらい闘病や後遺症と闘いながら、イタリア料理店をオープンさせたパンツェッタ貴久子さん。西洋医学と東洋医学、どちらを選ぶか、イタリア人である夫の祖国の標準治療に従うのか――。さまざまな情報のなかで戸惑いながら、彼女が選び取った道をたどる。

2008年、念願のイタリア料理レストランをオープン

東京・中目黒駅から池尻大橋方面に10分ほど歩くと、ベーカリーを併設したイタリア料理店が見えてくる。店の名は「コチネッラ」。イタリア人タレントのジローラモさんの妻、パンツェッタ貴久子さん(50歳)が経営するレストランだ。

「コチネッラ」を訪れたのは、クリスマス・イブの午後。白を基調とした店内で待つことしばし、クリスマスカラーの服に身を包んだ貴久子さんが現れた。小柄で可憐な貴久子さんは、顔立ちといい雰囲気といい、まるで小粋なイタリア人のよう。

「でも、ジローラモの妻というと、皆さんすごい人を想像するみたいで……。『わりと普通ですね』とよく言われます」

夫ジローラモさんとともに、イタリア文化の紹介者として活躍する貴久子さんが、子宮頸がんを発症したのは07年春。ステージ1bと診断され、子宮全摘手術後、化学療法、放射線療法を行った。2カ月半の治療と半年間の療養を経て、念願のイタリア料理レストランをオープンしたのは、08年10月のことだ。

貴久子さんはどのようにがんとの闘いを制し、夢の実現に向かって歩み出したのか。その軌跡をたどってみたい。

運命を変えたジローラモさんとの結婚

写真:新婚時代の貴久子さんとジローラモさん

新婚時代の貴久子さんとジローラモさん

写真:ヴェローナ市より贈られた「ジュリエッタ賞」受賞式にて

ヴェローナ市より贈られた「ジュリエッタ賞」受賞式にて

86年、大学を卒業した貴久子さんは、磁器制作を学ぶためイタリアに向かった。その途上、飛行機のなかで偶然隣り合わせたのが、ジローラモさんだった。 「目的地に着くまでの2時間、ジロー(ジローラモ)さんは隣席でずっとしゃべりっぱなし。楽しい人だな、というのが第一印象でした」

若い2人は意気投合し、まもなくフィレンツェとナポリ間で遠距離恋愛が始まった。ジローラモさんは週末ごとに、自宅のあるナポリから貴久子さんの留学先であるフィレンツェまで、足しげく通いつめた。

「私がホームシックになっていたころ、ジローさんの呼ぶ声がするので、2階の窓から外を見たんです。すると、大きな犬がジローさんの足元でじゃれている。1人では寂しいだろうと、イタリアの牧羊犬マレンマ種の仔犬を持ってきてくれたんです。結局、1人では飼いきれず、ナポリに行くことになりました」

ナポリ国立カポディモンテ磁器学校の給費留学生となり、伝統的な磁器の制作を学んだ。

貴久子さんの帰国の日が近づくと、2人は結婚を決意。ナポリの役所で結婚の手続きをすませると、日本に帰国して結婚式を挙げた。イタリアの土を踏んでから2年後の、88年のことである。

「ジローさんは新しいことに挑戦するのが好きな人。だから、日本に来ることに抵抗はなかったようです」

ジローラモさんは、貴久子さんの父の仕事を手伝いながら、大学で日本語を学び始めた。その2年後、ジローラモさんはNHK教育テレビの「NHKイタリア語会話」のオーディションに合格。持ち前の明るいキャラクターと流暢な日本語が受け、「典型的イタリア人」として、瞬く間にお茶の間の人気者になっていく。

ジローラモさんの成功は、妻である貴久子さん自身の生活も大きく変えていった。夫のエッセイや雑誌コラムの日本語訳を担当するようになり、メディアでイタリア文化を紹介する機会も増えていった。なかでも、貴久子さんが、その才能を大きく開花させたのが「食」の分野である。キッチンスタジオでイタリア家庭料理教室を主宰するかたわら、イタリア各地の料理を精力的に取材。97年にはボローニャ・シミリ料理コースのディプロマ(修了証書)も取得した。

さらに2000年には、ヴェローナ市より「ジュリエッタ賞」が贈られた。イタリア文化紹介者としての貴久子さんの功績が高く評価されたのだった。ロミオとジュリエットゆかりのバルコニーがある邸宅で行われた受賞式に、貴久子さんは艶やかな着物姿で臨んだ。東洋人初の、栄えあるジュリエッタ賞の受賞――イタリアの太陽の下で祝杯をあげながら、貴久子さんは友人たちと喜びに酔いしれた。

月経不順、不正出血。そして子宮頸がん発症

そんな喜久子さんに病の影が射したのは、46歳になった07年のことだ。少しずつオリモノが増えて月経周期が乱れ、月に2度のサイクルで月経が訪れるようになった。

「閉経が近くなると、よくあることよ」という友人の言葉に納得し、ホルモンバランスの問題と軽く受け止めていた。

だが、数カ月後の5月ごろ、今度は不正出血に見舞われた。

「ポリープがあるかもしれないから、すぐに病院に行ったほうがいいよ」と友人に助言され、翌日レディースクリニックを受診。その場で細胞診を受けた。

「がんの可能性もありますが、不正出血は、細菌感染が原因の場合もありますよ」

医師は貴久子さんにそう告げた。だが、年齢を考えると、細菌感染よりも、がんの可能性が高いのではないか――。不安は的中し、検査の結果、子宮頸がんであることが判明。

「やっぱりそうか、という感じでした。ショックではありましたけど、先生の診断も確定的ではなかったので、『病状はあまり重くないのではないか』と思っていました」

夫のジローラモさんも、突然の妻へのがん宣告にショックを受けたようだった。

「もともと動揺や気遣いを外に表すタイプではないので、心配しているんだか、してないんだかわからない感じでしたが……(笑)。イタリアに国際電話をかけて、お姉さんにいろいろ相談していたようです」

すぐに駒沢の東京医療センターで精密検査を受け、MRI()と細胞診を実施。8月に円錐切除術を行い、ステージ1bとの診断が下った。がん細胞がまだ残存している可能性が高いため、手術も含めた今後の治療方針を決めなくてはならない。ここからが正念場だった。

MRI= 核磁気共鳴画像法

「お腹は切らないほうがいいわよ」

円錐切除術後、貴久子さんは思わぬ後遺症に悩まされることになる。傷口がなかなか閉じず、出血が止まらなかったのだ。

「出血を止めるため、夜中に救急外来で傷口を縫ってもらったんですが、麻酔をかけられなかったのですごく痛かった。『こんなことはめったにない』と言われ、どんどん心配になっちゃって」

手術したら、自分はどうなっちゃうんだろう。仕事なんか、もうできなくなるんじゃないか――術後の体調不良もあって、不安は募るばかりだった。友人知人からはさまざまな助言が寄せられ、貴久子さんは情報の海のなかで翻弄されることになる。

「この時点で、治療については2つの選択肢があったんです。手術をするのか、それとも、手術をせずに最初から抗がん剤と放射線による治療を行うのか。子宮頸がんの場合、ヨーロッパでは手術をせずに、抗がん剤と放射線で治療する人が多いらしいんです」

さらに、東洋医学を信奉する友人からの助言も、貴久子さんを大いに戸惑わせた。

「がんに効くという水や気功を勧められたり、『お腹を開かないほうがいい』と忠告されたり。いろいろな人から違うことを言われて、すごく迷いましたね」 西洋医学と東洋医学の相克、日欧の医療事情の違い――錯綜する情報に戸惑いながらも、貴久子さんは最終的に決断を下す。決め手となったのは、「日本は手術の技術が進んでいる。もし、自分の娘に勧めるならば、手術です」という主治医の一言だった。

「子供が欲しいと思っていたので子宮を取ることは哀しかったんですが、卵巣は取らなくてもいいということだったので……。ジローさんも、最終的には『あなたのしたいようにしなさい』と言ってくれました」

12月に子宮全摘手術を実施。幸い、術後の排尿障害で悩むこともなく、貴久子さんは順調に回復していく。

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