腹膜播種まで起こしていたスキルス胃がんとの出合いが、人生を変えた
「スキルス胃がんに負けないぞ」胃を全摘後、フルマラソン完走
(団体職員)
さらがい ひでゆき
広島県府中市で高級家具などの製材所を営んでいたが廃業。精神障害者施設の職業指導員に転職した直後の06年、53歳のときにスキルス胃がんが判明。腹膜播種まで起こしており、当初は手術もできない状態だったが、生活改善と抗がん剤治療のおかげで手術可能となり、胃と胆のうと脾臓を全摘した。退院2カ月後から趣味のジョギングを再開し、09年暮れ、フルマラソンを完走
自分が前例になるような生き方をしたい
「リレー・フォー・ライフ・ジャパンin広島」には、ちょっとした有名人がいる。第1回目の2009年は、ゼッケンに「スキルス胃がんに負けないぞ」と書き、10年9月の第2回では、「フルマラソン完走」と書き加えた皿海英幸さん(57歳)だ。
リレー・フォー・ライフは、がん患者や仲間たちが交代で24時間、夜を徹して歩いて「命のリレー」を行うチャリティーイベント。1985年にアメリカで始まり、日本国内では2006年につくば市で初めて行われた。現在は全国に広がっており、広島では第2回となるのだ。
初日の夕刻、6人のサバイバーがステージに上がり、自らの病歴や希望などを語り始めた。先陣を切ったのが皿海さんだった。
「宮崎県で行われた国際青島太平洋マラソンにおきまして、無事フルマラソン42.195キロを完走することができました」
この第一声で会場から大きな拍手がわき起こった。昨年のリレー・フォー・ライフで、「フルマラソンを走る予定」と話した皿海さんの“ 誓い” を多くのサバイバーが覚えていたためかもしれない。
皿海さんは「5年生存率10~20パーセント」とされるスキルス胃がんで、胃と胆のうと脾臓を全摘。2010年8月、その手術から4年を超えた。 「前例が無いのなら、私が前例になるような生き方をしたいと思って生きてまいりました」 力強い言葉に、拍手が地鳴りのように響いた。
がんになって明るくなった
もともと人前は得意でなく、家でも1人静かに本を読むことが好きなタイプ。ステージ上では堂々と見えたが、実は、違っていたようだ。
「あがり症なのでステージは得意じゃないんです。ほかの女性たちが譲り合う感じだったので『ええい、ままよ』と、先に上がりました」
仕事は、自然の木が相手の製材業だった。地元の広島県府中市は、古くから「府中家具」で知られる地。父の代から高級家具などの製材所を営んできたが、時代の波には逆らえず廃業に追い込まれた。
「山の松は松食い虫にやられ、昔のように婚礼家具を買う人もいなくなりましたからね」
仕事がうまくいかず、自分に自信が持てない面があったのかもしれない。
「ずっと周りの人の顔色をうかがいながら生きているようなところがありました」
他人の言葉を真っ正直に受け止めるため、「あんたには冗談も通じん」とか「クソ真面目は扱いにくい」と言われていたという。そんな職人肌の皿海さんが、リレー・フォー・ライフではいろんな人とフレンドリーに語らっている。どこから見ても、明るく気さくな男性だ。
「『がんになって明るくなった』と、周囲から言われるんです」
本当にそんなことがありえるのだろうか。
がん宣告は「水戸黄門の印籠」
皿海さんは、意外なところで胃の精密検査をするよう言われている。
「眠れない日が続いたので睡眠薬をもらおうと精神科を受診し、うつ状態と診断されました。精神科医といろいろな話をするなかで胃が悪いと思われたのか、胃の検査も勧められました」
内科的な診察はしていないので、なぜ精神科医がピンときたのかはわからない。食欲もあり、胃の違和感など自覚症状はまったくなかったにもかかわらずだ。
「ただ、あとで考えてみると体重が7~8キロ減っていました。ちょうど仕事を変えた直後で、自分ではそっちの影響だと思っていたんです」
製材所を閉じたあと、まったく畑違いの精神障害者施設の職業指導員になったばかり。物言わぬ木が相手の仕事から、人が相手の仕事へ変わったことは大きなストレスだったはずだ。まさにゼロから再スタートした矢先の2005年12月16日、地元の総合病院で胃がんの宣告を受けた。ショックに打ちのめされるのが普通だが、そうではなかった。
「たとえが適切かどうかわかりませんが、『水戸黄門の印籠』を得たような感じでした。『ワシはがんなんだぞ』と言ったら周りが少々の無理でも聞いてくれるかなあと。自分なりの生き方をしていいんだという許しをもらったような気分でした」
年明け早々の1月6日、緊急入院した岡山大学医学部付属病院で「スキルス胃がん」と診断され、腹腔鏡手術をすることになった。がんが胃壁を突き破り、腹腔内に散らばっていれば手術はできず、そのまま閉じることになる。「スキルス胃がん」といえばアナウンサーの逸見政孝さんが思い浮かぶ程度の知識しかなかったため、恐怖感はそれほど強くなかったという。ただ、できるかどうかわからない手術にのぞむには覚悟が必要で、「胸を張って明るく行きたい」と、手術室へは自分の足で歩いて行った。担当看護師の問いかけにも、軽口をたたいている。
「皿海さん、アレルギーは無かったよね」
「あるとすれば女性アレルギーでしょう」
「やっぱりね。そうだと思った」
そうした会話を通じて、彼女とは次第に本音を語り合える関係になっていった。
腹腔鏡手術では、がん細胞が腹腔内に散らばる「腹膜播種」を起こしており、何もできなかった。だが、抗がん剤治療でがんを抑えることができれば手術は可能となる。皿海さんは、自らが書いたエッセーにこう記している。
〈抗がん剤の治療を受けている人は「病院が嫌い。建物を見るだけで気分が悪くなる」という人が多いと聞く。私は病院大好き。受診日が近づくと体調がよくなり、当日は早起きし、早朝の電車で行く。これは経過が順調なのはもちろんだが、彼女の存在が大きい〉
本音で語れる看護師の存在が、皿海さんの免疫力を高めてくれたようだ。
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