胸・子宮・卵巣、女性機能をすべて切除。どん底から這い上がったその強さの秘密
2度の乳がんは、本来の自分自身を取り戻すためのレッスンだった

取材・文:吉田燿子
発行:2010年11月
更新:2013年8月

  
細谷真美さん
細谷真美さん
(心と体の癒しのサロン「Mamiy」経営)

ほそや まみ
高校時代にスカウトされ、モデルとしてショーやCMなどで活躍。大手電機メーカーのOLを経て、24歳で結婚、専業主婦に。44歳のときに右胸に、49歳のときに左胸に乳がんが発覚。その後、子宮筋腫と卵巣嚢腫を患い、左右の乳房と子宮、卵巣を切除。がんを機に、自分の人生を振り返り、離婚し、現在はセラピストとして、心と体の癒しのサロン「Mamiy」を経営している

がん体験を生かしセラピストとして活躍

写真:「Mamiy」にて

「Mamiy」では、1人のお客さんにたっぷりと時間をとるため、1日の予約を3人までと限定。アロマテラピーや整体、オーラソーマなどさまざまな方法を使って、来られた方に心と体の癒しを提供している

千葉県・西船橋のマンション1階にある心と体の癒しのサロン「Mamiy」。1日の予約を3人までとし、アロマテラピーや整体、オーラソーマなどさまざまなメニューを提供するヒーリング・スポットである。このサロンを06年に開業したのが、セラピストの細谷真美さん(56歳)。そのきっかけとなったのは、細谷さん自身の乳がん体験だった。

44歳のときに右胸に、49歳のとき左胸に乳がんを発症。その後、子宮筋腫と卵巣嚢腫も患い、左右の乳房と子宮、卵巣のすべてを失った。病気と闘いながらアロマテラピストなどの資格を取得し、自宅を改装してサロンをオープン。今は自らのがん体験を生かし、心と体をトータルにケアするセラピストとして活躍している。

44歳で乳がん発症右乳房を全摘する

高校時代に銀座でスカウトされ、モデルとしてショーやCMなどで活躍。大手電機メーカーのOLを経て、24歳のとき広告代理店のプロデューサーと結婚し、専業主婦として双子の男の子を育て上げた。

子供も大学に進学したことだし、これからは自分の好きなことをやりたい――43歳になった細谷さんは期待に胸を膨らませていた。右乳房にしこりがあるのに気づいたのは、そんな矢先のことである。

97年5月、知人の紹介で駿河台日本大学病院を受診。超音波検査とマンモグラフィを行った結果5ミリの腫瘍が見つかった。

「これは95パーセント、がんだと思います」

主治医のY医師にそう言われたが、細胞診ではなかなかはっきりとした結果が出ない。がんだという確証が得られないまま、月1回定期検診に通っていたが、翌年になって通院を3カ月ほど休んでしまった。「いつまでもグレーゾーンが続く宙ぶらりんな状態に、疲れてしまったんですね」と細谷さんは振り返る。

しかし、通院の中断は予想もしなかった結果を招いた。右胸の違和感が日増しに強くなり、98年6月に再受診。腫瘍はなんと5センチまで大きくなっていた。病期は3b期。検査を休んでいたわずか3カ月の間に、がん細胞の増殖は臨界点を超え、一気に病勢を増していた。

8月に緊急手術を実施。手術前日、Y医師から告知を受けた。

「この腫瘍の大きさから考えると、全身に転移していると考えたほうがいい。その覚悟でやりましょう」

がんが予想以上に進行していることを知らされ、細谷さんは事の重大さに衝撃を受けた。右乳房を全摘し、胸骨や鎖骨のリンパ節と大胸筋も切除。リンパ節への転移がなかったのは不幸中の幸いだったが、「1年後に再発している可能性は高い」と告げられた。

1カ月の入院期間を終え、退院後は25回の放射線治療とノルバデックス(一般名タモキシフェン)によるホルモン療法を実施(3年間)。ただし、細谷さんは抗がん剤治療だけはがんとして拒絶した。

「そんなに長く生きられないなら、抗がん剤で体力を消耗するよりも、元気なまま好きなことをやって死んだほうがいい。それで命を失ったとしても、自ら望んだことですから」

細谷さんはそう、主治医にきっぱりと告げた。

乳房再建を直前で中止

ところで、細谷さんは当初、Y医師の勧めもあって乳房再建を考えていたという。全摘手術から1年後に組織拡張器を入れる手術を行い、少しずつ生理食塩水を入れて、カチカチに固くなった皮膚を風船のように膨らましていく。こうして皮膚が十分に伸びたところで、組織拡張器を取り出し、人工乳房を挿入する予定だった。だが、再建手術を目前にしたある日、思いもよらない事件が起こる。外出中、組織拡張器が破れて中から水が漏れ出したのだ。前日にマッサージをやりすぎて、組織拡張器を傷つけてしまったのが原因だった。外出先で右胸がみるみるしぼんでいくのを、細谷さんは茫然と見守るしかなかった。

「こうなったら、早く人工乳房を入れてしまいましょう」

早期の再建手術を勧める主治医の熱意とは裏腹に、細谷さんの心は冷めていった。たとえ人工乳房を入れたとしても、また破れないという保証はない。もし同じように破れてしまったら、また体にメスを入れなければならなくなる。それだけはいやだ、と細谷さんは感じた。

「モデルという華やかな世界にいたこともあって、以前の私は外見を気にする気持ちが強かった。でも、いつの間にか胸に対するこだわりは消えていた。胸があろうとなかろうと、自分であることには変わりがない――そう思える自分になっていたんですね」

結局、主治医の反対を押し切って、細谷さんは乳房再建をしないことを決めた。とはいえ、土壇場での再建中止にはそれなりの犠牲も払ったはずだ。細谷さんに心境の変化をもたらしたものは一体何だったのだろうか。

「これは本当の愛ではない」夫と離婚、自立の道へ

写真:小学校高学年ごろの双子の息子さんと一緒に

小学校高学年ごろの双子の息子さんと一緒に。病気を乗り越えられたのも、息子さんたちの支えが大きかったと細谷さん

実は細谷さんは、がんの手術後、離婚を経験している。といっても、夫婦の間で何かがあったというわけではない。もともと細谷さん夫婦は、銀座でランチデートを楽しむほど仲のよい夫婦だった。「来世もずっと一緒にいようね」――甘い言葉を交わしながら、2人の愛が本物であることを、つゆほども疑ったことはなかったという。

そんな平穏な日常を揺さぶったのが、がん体験だった。細谷さんはこう語る。

「病気になって初めて、『命の期限ってあるんだな』と感じました。私は病気になる前から、自分は何のために生まれてきたのか、私の人生の使命って何だろう、と考えるタイプの人間でした。それで、なおさら人生について深く考えさせられたんです」

自分は家族に恵まれ、最高に幸せだと思っていた。でも本当に幸せなら、なぜ病気なんか作りだしたのか。考えてみれば、自分には物事の明るい面だけを見ようとして、影の部分から目をそむけるところがある。そのことに気づいたとき、自分は彼の好きな面だけを見て愛していたのだと思い至った。

「これは夫への本当の愛というより、情や執着心でしかない。彼の私への愛も同じでした。互いが互いを真綿でくるむようにして束縛し合っていた。今まではあまりにも上手にやり過ごしていたけれど、気がつけば影はいつもそこにあったんですね」

とはいえ、細谷さんは進行性の乳がんで療養中の身。手に職のない細谷さんが離婚すれば、たちまち窮乏することは目に見えている。だが、真実に気づいていながら、このまま嘘の生活を続けることは、細谷さんの「内なる神」が許さなかった。

(どうせ長いこと生きられないなら、もう1度自分らしい人生を取り戻したい。私の直感が『そうしなさい』と言っている)

細谷さんは夫と別れ、働きながら夜学に通い始めた。

「誰かの魂を癒すことが私自身の癒しにつながる。闘病体験を生かし、人を癒す仕事がしたい」

それが細谷さんの新たな目標となった。

看護助手の仕事につき、夜は専門学校でアロマテラピーや整体、リフレクソロジーなどを学ぶ日々。看護助手の仕事は予想以上にきつく、細谷さんはみるみる痩せていったが、ハードな仕事に耐えたことは自信にもつながった。

だが、乳房全摘で大胸筋を切除した身に、整体やマッサージの実技がこたえないはずはない。アロマテラピーの資格試験の日が近づいたころには、ボールペンも持てないほどに腱鞘炎が悪化していた。

「神様お願いです、私にこの仕事をさせてください」

そう祈ると、なんと試験の当日、奇跡のようにピタリと痛みが消えた。細谷さんは晴れて実技試験に合格。大手サロンに入社し、百貨店内の店舗で働き始めた。49歳、遅咲きのアロマテラピストとしての、第2の人生のスタートだった。

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