47歳でサルサにのめり込んだ元敏腕芸能プロデューサーの体からがんが消えた……
踊ることによって、内なる生命力を呼び覚ました!?
渡部洋二郎さん
(「サルサ・ホットライン・ジャパン」代表)
わたべ ようじろう
1948年生まれ。大学卒業後、大手芸能プロダクションに入社。山下久美子、大沢誉志幸など数多くのミュージシャンの宣伝やプロデュースを手がける。その一方で30代のときにサルサと出合い、サルサのおもしろさにのめり込み、自らも踊る傍ら、97年に現在の「サルサ・ホットライン・ジャパン」を設立、サルサのPR活動を始める。2005年に膀胱がんが発覚。それを機に、「生きるために踊ろう」と”サルサ”の素晴らしさを提唱している
がんを機にサルサがかけがえのない存在に
イベント会場で司会を務める渡部さん。六本木のベルファーレで
生きるために踊ろう、踊りを通じて病を癒やそう――。
そんな思いから、“ダンス・フォー・ライフ”を提唱している1人のがんサバイバーがいる。『サルサ・ホットライン・ジャパン』代表を務めるサルサダンサー、“ジョージ渡部”こと、渡部洋二郎さん(62歳)だ。
中南米や米国でラテン系移民を中心に人気が高まり、近年は日本でも熱狂的なファンが増えているサルサ。
渡部さんが本格的にサルサを習い始めたのは、47歳のとき。以来、サルサの魅力にとりつかれ、日本におけるサルサ普及の立役者として、イベント企画やPR事業に取り組んできた。
「人種や年齢、貧富の差を超えて触れ合えるのが、サルサという踊り。その本質はストリートダンスであり、人と人とのコミュニケーションです。サルサの楽曲は実にロマンチックで、“1曲1曲に恋をする”といわれるほど。アップテンポの曲やスローな曲に合わせて、男女が互いの体温を感じながら、押したり引いたり回したりする。それはまさに非日常の世界で、1度はまったらもう病みつきです」
渡部さんにとってサルサがかけがえのない存在になったのは、4年半前の膀胱がんの発症がきっかけだったという。一時は死も覚悟したという渡部さん。その一方で、「自分にはサルサしかない」と思いつめ、治療のかたわら、ただただサルサを踊り続けた。
そして病気と診断されてから4カ月――。その後の検査で、がん細胞が死滅し、もう既に体内に残っていないことが判明。その状態は4年半経った今でも続いている。
もちろん治療による効果があったことは否めない。しかし、それだけとは思えない、と渡部さんは語る。とくにがんになってからの4カ月間、サルサに没頭したことが、がんに対して何らかの影響を与えたのではないか、と感じているのも事実だ。では、サルサは渡部さんの病気、そして人生に何をもたらしたのか。その軌跡をたどってみたい。
波乱万丈の生い立ちを経て、音楽の世界へ
渡部さんは1948年生まれ。東京・荒川区の町屋でオートバイ工場を経営する父と、湯島芸者の母との間に生まれた。
父はチャキチャキの江戸っ子で、いわゆる“昭和成金王”の1人だった。渡部家の敷地にある広大なグラウンドで、ホンダと一緒に第1回のモーターショーを開催したこともある。そんな大金持ちのお坊っちゃまとして、渡部さんは多くの女中にかしずかれて育った。
渡部さんの「洋二郎」という名前には、こんな命名の由来がある。母が秋田県横手市の高等女学校に在学中、作家・石坂洋二郎が教師として赴任してきた。母は洋二郎に恋をし、その後を追うようにして上京。だが、うたかたの恋は破れ、母はモデルや芸者をして暮らしを立てるようになる。
「母は常々、『石坂洋二郎の小説“若い人”のモデルは私よ』と言っていました。上京して向島に住む石坂洋二郎を訪ねたらしいのですが、彼に妻子があることをはじめて知り、愕然としたそうです」
その後、渡部さんの父と出会って結婚。まもなく生まれた長男は、「洋二郎」と名付けられた。母は命名という行為によって、若き日の恋の記憶を封印したのだろうか。いずれにせよ、情熱的なロマンチストである母の気質は、名前とともに渡部さんに受け継がれることとなった。
だが、渡部家の栄華も長くは続かなかった。渡部さんが8歳のとき、父の会社が倒産。それからは「貧乏街道まっしぐら」で、学費にも事欠くような生活が続いた。
義兄の援助で大学に進学し、卒業後は芸能界最大手の渡辺プロダクションに入社。宣伝部に所属し、欧陽菲菲やテレサ・テンなどの外国人歌手から、沢田研二などのグループサウンズや木の実ナナのミュージカル、さらには山下久美子や大沢誉志幸といったロック・シンガーに至るまで、幅広い芸能音楽シーンのプロデュースを担当した。
世界中を駆け回り、あわただしい喧騒に身を置きながら、渡部さんは昭和の音楽シーンの最先端を疾走し続けたのだった。
運命に導かれたサルサとの出合い
そんな渡部さんがサルサと出合ったのは、30歳ごろのことだ。70年代後半、都内の電車の中で、ある白人女性と知り合いになった。彼女は米国サンタバーバラの教員で、サルサを学校教育に採り入れる活動をしているという。当時米国では、メキシコ系移民の犯罪増加が問題となっていた。こうした子供たちを米国社会に溶け込ませるため、小中学校の授業にサルサを採り入れたのだと、彼女は熱く語った。
「サルサとは単なる踊りではないの。人の心と心をつなぐ踊りなのよ」
そんな彼女の言葉は、渡部さんの心にサルサへの関心を芽吹かせた。
だが、渡部さんがサルサにのめり込んだ理由は、それだけではない。決定的な誘因となったのは、ミドルエイジ・クライシス(中年の危機)だった。40代後半のころ、渡部さんは仕事で行き詰まりを感じるようになった。プロデュースの仕事をするなかで、「時代と自分が合わなくなってきた」のだ。
数々のミュージシャンを成功に導いてきた自分の感性が、流行遅れになりつつある。その苦しさから心身に変調をきたし、自律神経失調症になった。
「自分の感覚が時代に合わなくなっていたから、もう現場を担当することはできない。それが寂しくて、本当に悩みましたね。これからの人生を一体どう楽しめばいいのか、と」
47歳でレッスンを始め、サルサダンサーに
やり場のない思いをぶつけるように、渡部さんはどんどんサルサにのめり込んでいく。ある日本人の先生のもとで、本格的にサルサのレッスンを開始。とはいうものの、50代を目前にして1から何かを学び直すのは容易ではなかった。
敏腕プロデューサーとして肩で風を切って歩いてきた男性が、初心者として教えを請わなければならない。最初のうちは体も思うように動かず、プライドはズタズタだった。それでも続けられたのは「悔しかったから」、と渡部さんは振り返る。持ち前の負けず嫌いを糧にしてレッスンに励み、渡部さんは年齢にも関わらず、当時でき始めたサルサクラブのクラブダンサーとしても一目置かれるようになっていく。
そのかたわら、渡部さんはボランティアでサルサの宣伝活動にも取り組み始めた。97年『ダンシング・ヒップス(現サルサ・ホットライン・ジャパン)』を設立し、サルサのPRをスタート。その年の夏には、プエルトリコで開催された大会『第1回ワールド・サルサ・コングレス』にも参加。日本人のサルサファンとして本場に乗り込み、現地のサルサファンをびっくりさせた。
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