死に対する恐怖心を感じないのは物理学的死生観のお陰
患者にとって必要な情報を――副作用に苦しんだ自身の体験を克明に公開

取材・文:吉田燿子
発行:2010年7月
更新:2013年8月

  
豊田博慈さん
豊田博慈さん(元物理教師)

とよだ ひろし
1930年東京新宿区生まれ。東京教育大学理学部に進学し、理論物理学を学ぶ。卒業後は都内の中学・高校で教鞭をとるかたわら、戦後初めて旧ソ連の物理教育を日本に紹介、この分野のパイオニア的存在に。2001年前立腺がんを発症。重粒子線治療を受ける傍ら、自らの治療体験をホームページで公開している

自身のがん治療記録をホームページ上で公開

その克明な記述と豊富な情報量により、アクセス数30万件超を記録。前立腺がんの患者さんの間で、広く読まれているホームページがある。タイトルは「前立腺がんの画像による治療記録」。このホームページを作成したのが、元物理教師の豊田博慈さん(79歳)だ。

豊田さんは2001年に前立腺がんを発症。翌年、先進医療の1つである重粒子線治療()の臨床試験を受けた。このホームページでは、重粒子線治療を中心に、豊田さんの治療記録があますところなく公開されている。

骨シンチ()やCT、MRIなどの写真がふんだんに掲載され、用語解説や他サイトとのリンクも充実。およそ患者さんにとって必要と思われる、ありとあらゆる情報が、サイト上で可能なかぎり提供されている。「自分の恥を全部さらけ出しているようなものですね」と豊田さんは苦笑するが、その徹底した情報公開ぶりには、すがすがしささえ感じられる。

重粒子線治療=重粒子(炭素イオン)を加速器で飛ばし、体の奥深くにあるがん細胞に照射する治療法
骨シンチ(骨シンチグラフィ)=放射性医薬品を使う骨の核医学検査で、がんが骨に転移していないかを調べる

旧ソ連の物理教育を戦後初めて日本に紹介

写真:教え子の生徒さんと一緒に
中学・高校の教師だった豊田さん。教え子の生徒さんと一緒に

豊田さんは1930年生まれ。東京教育大学理学部に進学し、ノーベル物理学賞を受賞した朝永振一郎教授の門下として理論物理学を学んだ。卒業後は都内の中学・高校で教鞭をとるかたわら、戦後初めて旧ソ連の物理教育を日本に紹介。NHKテレビ・ラジオや東京12チャンネルの通信高校講座の講師を歴任し、物理の教科書や学習参考書、辞典などの翻訳・執筆にも携わった。

そのきっかけとなったのが、1957年に起こった“スプートニク・ショック”だ。同年11月、旧ソ連は世界に先駆けて人工衛星スプートニク1号の打ち上げに成功。宇宙開発競争のライバルだったアメリカをはじめ、世界中の科学者に大きな衝撃を与えた。

だが、当時の日本では、ロシア語の科学文献はまだほとんど紹介されていなかった。知られざるソ連の物理教育の現状を知りたい――そう考えた20代の豊田さんは、ロシア語の講習会に通って文法を学び始めた。旧ソ連の中学・高校物理学の教科書全6冊を取り寄せて、辞書と首っ引きで2年がかりで翻訳。この教科書は61年に出版され、10年以上にわたるロングセラーとなった。その後はロシア語の物理学の専門書や辞典の翻訳なども頼まれるようになり、豊田さんはこの分野でのパイオニア的存在となっていく。

人類初の人工衛星打ち上げ、アポロ11号の月面着陸――科学の進歩は人類の明るい未来を約束するかにみえ、教師としても充実した日々が続いた。豊田さんにとって、物理学の愉しみとは何だったのか。

「古典物理学を完成したニュートンは、自然哲学における数学的原理の探求を通じて、万有引力の存在を証明した。物理学とは、『自然とはどんな法則によって動いているのか』という問いから始まったわけです。私は、朝永振一郎先生や湯川秀樹先生の素粒子論に憧れて物理の道に進んだ。宇宙の構造を知りたくて物理学を学んできたのです」

71歳のとき前立腺がんを発症

57歳で退職後、予備校講師として10年間勤務。体に異変を感じたのは、71歳になった2001年のことだ。頻尿の症状と左骨盤内の鈍痛が気になり、6月、近所の病院の泌尿器科を受診。血液検査の結果、「腫瘍ができている疑いがある」と聞かされた。翌月、生検を実施。普通なら、エコーで確認しながら慎重に生検を進めるところを、担当医は“経験と勘”で、ズブズブと前立腺に針を刺していく。後で、友人の折井弘武医師に相談すると、「そんな乱暴な方法では、針が皮膜を破ってがんが転移するかもしれないぞ」と脅かされた。そこで紹介状と生検のデータを持参し、小平市の公立昭和病院を受診。さらに骨シンチグラフィとCTの撮影も行った結果、ステージCの前立腺がんであることが判明した。前立腺がんにおけるステージCとは、「転移はないが、がんが前立腺皮膜を越えて広がっている状態」である。

8月中旬から抗男性ホルモン剤であるカソデックス(一般名ビカルタミド)とLH-RHアナログ剤のリュープリン(一般名リュープロレリン)の投与を開始。ホルモン剤で腫瘍を小さくしてから、2カ月後に放射線治療を行う方針が決まった。転移がないのでMRI撮影はしないということだったが、念のため他の病院でMRI検査を受けることを折井医師に勧められ、東京都の多摩老人医療センター(現・多摩北部医療センター)を受診。通院に便利なこともあって、その後はここで治療を受けることにした。

ホルモン療法が功を奏し、PSA値は、わずか40日間で72から0.2まで激減。放射線治療を行うべきかどうかを相談するため、豊田さんは都立駒込病院・放射線科の唐澤克之医師を訪ねた。

「ホルモン治療だけでは、がん細胞がいずれ抵抗力をつけて勢いを取り戻す可能性がある。したがって、放射線治療は絶対に必要」というのが唐澤医師の意見だった。だが、放射線治療を行えば、がん周辺の健康な細胞にもダメージを与える危険がある。果たして、医師の勧め通り、放射線治療を受けるべきなのか。もっと副作用が少なく、効果が高い選択肢は他にないものだろうか――インターネットでいろいろ調べるうちに、豊田さんは、放射線医学総合研究所の重粒子医科学センター病院で、重粒子線治療の臨床試験が行われていることを知った。

重粒子線治療の臨床試験に参加

重粒子線治療とは、重粒子(炭素イオン)を加速器で飛ばし、体の奥深くにあるがん細胞に照射する治療法だ。重粒子線には、エネルギーの度合いによって体内に入る深さが決まり、その終端近くでエネルギーを急激に放出するという性質がある。これを利用して、周辺の正常細胞に大きなダメージを与えることなく、がん細胞だけを攻撃することを可能にしたのが、重粒子線治療だ。これが、従来の放射線治療よりも副作用が少ないとされる理由である。

豊田さんは唐澤医師に紹介状を書いてもらい、12月に重粒子医科学センター病院で、最終的に重粒子線治療の臨床試験に参加する決意をした。その背景には、物理学徒としての知識や関心も、少なからず影響していたようだ。

「重粒子医科学センターでは、2台のシンクロトロンを使って重粒子を加速させます。このシンクロトロンとは、素粒子論の研究に使う研究装置を、医学の分野に応用したものなんです。直径約40メートルのシンクロトロンで加速された炭素イオンが、光速の7割もの速さでぶつかってくるわけですから、その威力たるや大変なもの。この重粒子線がぶつかれば、がん細胞などひとたまりもないことは、容易に想像がつきます。その意味では、物理学を学んでいたからこそ、安心して治療を受けることができたのかもしれません」

02年1月から重粒子線治療がスタートした。1週間に4回、5週間にわたって、合計20回の重粒子線の照射が行われた。

照射期間中は頻尿に悩まされたものの、白血球の減少や皮膚の炎症も起こらず、心配していた膀胱炎や尿道炎の痛みなどもなかった。重粒子線治療が終わると、再び多摩老人医療センターに戻り、カソデックスの服用と月1回のリュープリン注射を続けることが決まった。

だが、このリュープリン注射が、思わぬ副作用をもたらすことになる。重粒子線治療が終わった後、4カ月の間に4回のリュープリン投与が行われた。ところが、その副作用により、足腰が歩行困難になるほどの筋肉痛に見舞われた。

主治医に頼んで注射を中止してもらい、1カ月後に筋肉痛の症状は治まったが、副作用はそれだけでは終わらなかった。

最後のリュープリン注射から1年8カ月ほど経ったころ、注射痕が腫れ始めるという後遺症に見舞われたのだ。おそらく、以前注入した注射液が、吸収されないまま腹部の皮下に残っていたのだろう。注射痕はすっかり化膿してしまい、豊田さんはたまらず外科に駆け込んだ。患部を切開して膿を出したことで、痛みはようやく治まったが、ホルモン剤の副作用の恐さを、豊田さんはあらためて思い知らされた。

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