看護師、患者を経て――患者と医療者をつなぐ架け橋に!
「できない自分」を認めることから生きる心の余裕が生まれた
射場典子さん
NPO法人ディペックス・ジャパン理事
いば のりこ
1963年生まれ。84年に順天堂看護専門学校卒業後、看護師として順天堂大学病院に勤務。その後米国留学を経て、ターミナルケアについて学ぶため聖路加看護大学大学院に進学。卒業後は大学の教員として、後進を指導。42歳で卵巣がんが発覚。病気後は大学を辞め、「体験者の声を届け、患者さんを支えたい」と、NPO法人ディペックス・ジャパンで活動している
看護師であり、がん体験者であるからこそできることがある
2009年12月、乳がん患者の語りを収録したWebサイトがオープンした。運営主体は「NPO法人 健康と病いの語りディペックス・ジャパン」。厚生労働省の研究助成を受けて作成された。英国オックスフォード大学で開発されたDIPExと呼ばれるデータベースをモデルとした日本版公式サイトである。現在、英国版はWebサイト「ヘルストークオンライン」として公開されている。
このサイトにアクセスすれば、いつでもどこでもインターネットを通じて、乳がん患者43人の体験の語りを動画で見聞きすることができる。治療法や選択のしかた、経済面での悩みや家族とのかかわりかた、年齢など、さまざまなトピックで検索することも可能だ。
このプロジェクトの一員として日本版の立ち上げにかかわったのが、射場典子さん(46歳)だ。射場さんは看護師としての病院勤務、アメリカ留学を経て大学教員への道を歩み、死と直面した患者のケアに一貫してかかわってきた。射場さんが卵巣がんを発症したのは42歳のとき。医療者でもある射場さんは、どう病に向き合ったのか――。
患者のケアを学び直すためアメリカへ留学
看護師へのあこがれが芽生えたのは中学1年のころ。脳性小児麻痺の姉に付き添い、病院に出入りする機会が多かったことも理由の1つだった。18歳のとき順天堂看護専門学校に入学。84年に看護師免許を取得し、順天堂大学医学部付属順天堂医院に就職した。
配属先は外科・整形外科系の病棟。多くはがんや肝硬変などの厳しい病気で、中には骨腫瘍の10代・20代の若い患者さんも少なくなかった。80年代の日本では病名の告知も一般的ではなく、死に直面した患者さんのケアも十分ではなかった。夜中に医師の名を何度も呼んだり、不安感からナースコールをしてくる患者さんを、射場さんはただ抱きしめ、「大丈夫だから」と語りかけるほかなかった。
射場さんは、ある20代の骨腫瘍の患者さんのことが今も忘れられないという。術後の処置をしているとき、彼は「どうして僕は1人なんだ」と2回、繰り返した。
「何言ってるの、先生たちも私たちもいるでしょ」
とっさにそう返した。彼が亡くなったのは、それから間もなくのことだ。
「誰も自分に真実を告げてくれないし、心から苦しみを吐き出せる相手もいない。彼の苦しみや寂しさに寄り添う人が、誰もいなかったのだと思います」
患者の苦しみに気づいても、自分に一体何ができるのか。不安の中で模索する日々が続いた。ある大腸がん患者が1冊の本を貸してくれたのは、そんな折のことである。がん体験を通じて死を見つめる1人の精神科医の姿を描いた、柳田邦男著『「死の医学」への序章』だった。
(病名を告知してないのに、この人は全てわかっている……)
その本を託されたことが、何かのメッセージのように思えた。もっと勉強して患者に寄り添う看護を学びたい、そんな思いが湧いてきた。
患者のケアを学び直したいという思いと、海外への憧れもあって、射場さんはアメリカ留学を決意。3年間で貯めた300万円を元手に、87年、ミズーリ州セントルイスのメリービル大学に留学した。
なぜこの人は、こんなに安らかに死を語るのか
大学では心理学を専攻。副専攻の人文科学では、死と文化をテーマとした授業があった。死の捉え方は文化的背景によって異なる。アメリカのように宗教的背景の強い国では、人々が死についてオープンに語る土壌があると感じることも多かった。心理学の実習で病院に行くと、ある患者がこう語りかけてきた。
「私は死期が近いのだけれど、心は落ち着いているのよ」
なぜこの人は、こんなに穏やかな顔をして死を語るんだろう――死後、天国に行くことを信じて疑わない患者の姿。かたや健康でありながら、死に対する不安と恐怖から逃れられない自分。平安に包まれた末期患者の姿を目の当たりにして、射場さんは自分自身の死生観を問い直さずにはいられなかった。
アメリカ留学は、射場さんの人生にとっても大きな転機となった。渡米の1年後、プロテスタントの洗礼を受けてキリスト教に入信。きっかけは、ホームステイ先の家族とのふれあいだった。彼らはどんな人にも平等に手を差しのべ、生活そのものが周囲への愛情に満ちていた。その姿を見て射場さんは大いに感化され、自分もそうなりたいと願った。彼らを支えているものが信仰だと気づいたとき、射場さんもまたクリスチャンになる道を選んだのだった。
「言葉も不自由な外国で、弱い自分を抱えて苦しい時間を過ごしていたとき、自分にとって支えになったのは信仰でした。それまでの自分にとって、死は不安の対象でしかなかった。ところが、信仰を持つことによって、死が恐怖ではないと感じる自分がいました。死はこの世の終着点ではあるけれど、すべての終わりではない。死は通過地点であり、何より死のその瞬間までは生きていられるのだから……。最後まで患者さんと心がともにあることこそ重要なのではないか、と気づいたんです」
大学での激務の果てに卵巣がん発症
90年に帰国。母校から打診され、順天堂医療短期大学の助手になった。ここで3年間働き、元同僚の医師と結婚。31歳のとき、ターミナルケアについて学ぶため聖路加看護大学の大学院に進学し、看護学を専攻した。
修士課程修了後は、墨田区の賛育会病院の緩和ケア病棟の立ち上げに参加。98年、35歳で聖路加看護大学の講師となった。がん患者のケアを教える立場となり、急性期の患者をみる外科系病棟の実習を担当。授業や研究の合間に学内や学会の仕事もこなし、朝7時から深夜まで働くことも珍しくなかった。看護学生であっても、医療現場でミスは許されない。学生の実習指導は、業務の何倍もの緊張を強いられた。04年には助教授に昇進。仕事にやりがいを感じ無我夢中で取り組んだが、過緊張の連続で疲労が蓄積していった。
射場さんが卵巣がんを発症したのは、42歳のとき。腹部が出てきたのが気になるぐらいで、自覚症状はなかった。06年2月初旬、仕事中に急に激しい腹痛に見舞われた。転げ回りたいほどの痛みをこらえて救急外来を受診すると、「腹膜炎を起こしているかもしれない」と告げられた。すぐに婦人科にまわされた。エコーの画像を見たとたん、医師の顔色が変わった。右卵巣に、見ただけで異常とわかる不鮮明な影が映っていた。なんと直径14センチの卵巣がんが、腹腔内で破裂していたのだった。
「告知を受けたときは、割と冷静に受け止めていました。ただ、『数日後に福岡の学会に行くことになっているんですが、行けませんよね?』と医師に尋ねたのを覚えています。今思えば、冷静なようでどこか変だったのかもしれませんね」
サイズの大きながんが腹腔内で破裂していて、腹水もたまっていることを考えれば、進行がんの可能性も十分に考えられる。
「次のお正月は越せないかもしれない、と思いました。でも、やりたいことはやってきたし、後悔はなかった。患者さんのケアをするために一生懸命経験を積んできたことは、もしかすると、今のための準備期間だったのかもしれないな、と。本当に不安はなかったですね」
そのまま入院し、翌日、緊急手術を実施。左右の卵巣と大網、子宮を全摘した。腹水にもがん細胞が認められたため、術後の快復を待ってTJ(タキソール+カルボプラチン)療法を実施。1回目は腹腔内に抗がん剤を直接注入し、その後は静脈投与に切り替えて、計6回、TJ療法を実施した。
吐き気や関節痛、しびれや脱毛といった抗がん剤の副作用には悩まされたが、心は驚くほど平穏だった。とはいえ、夫や両親の心中を思うと苦しかったと射場さんは言う。
「入院したときは、駆けつけた主人も青ざめていました。『生きていてくれるだけでいいんだから』『君が笑顔でいてくれることが1番うれしい』、そんな主人の言葉がうれしかったですね」
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