ノンフィクションライターが綴るがんと対峙した7カ月間の記録(手記)
人は病を得ることで支え合って生きることを知る
川本敏郎さん
ノンフィクションライター
かわもと としろう
1948年生まれ。大学卒業後、出版社に勤務。家庭実用ムック、料理誌、男性誌、ビジネス誌、書籍等の編集に携わる。2003年退社してフリーに。著書に『簡単便利の現代史』(現在書館)、『中高年からはじめる男の料理術』(平凡社新書)、『こころみ学園奇蹟のワイン』(NHK出版)など。2009年に下咽喉がん、大腸がんが発覚。治療をしながら、現在も執筆活動を行う
突然のがん宣告「十中八、九、がんでしょう」
わたしががんを宣告されたのは、2009年2月4日だった。
数カ月前から喉に痰がからんで、気になって近くの耳鼻咽喉科に通院していたが、ある日、水分を飲み込むときに喉にひっかかりを覚えた。医師に訴えたところ、早めに大きな病院で受診するように言われる。
「後々のことを考えると、大学病院のような大きな所がいい」と言われたとき、嫌な予感がした。が、根が楽天的のせいか、深刻に考え込みもせずに翌日、S医科大学病院の耳鼻咽喉科外来で診察を受けた。鼻から内視鏡を入れて写真撮影し、医師はそれをわたしに見せながら「食道と気道を閉じたり開いたりする、ここの部分に腫瘍ができています」と診断された。悪性か良性かを聞くと、医師はためらうことなく「十中八、九、悪性でしょう。来週、検査入院をしてください」との返事。がんであることを本人に隠して家族に伝える時代は、とうに過ぎていることを思い知らされた。
その後、生検にかけるため腫瘍の組織を採取すると、その痛みと貧血とがんの宣告から、わたしは意識を失ってしまった。
知人の紹介で別の病院に入院 治療方針が決定
フリーのライターを生業にしているわたしは一昨年来、財政破綻をした夕張市の村上智彦医師を取材していた。東京スポーツの医療ページ担当者に話をしたら乗り気になり、5回連載をすることになった。当面の仕事はそれだが、すでに原稿は書き上げていて2月9日から掲載が決まっていた。
12日に検査入院、頸部、胸部のCT(コンピュータ断層撮影)を撮る。翌週は胃カメラやMRI(核磁気共鳴画像法)の画像診断を受け、尿を貯めて腎機能の検査もする。
19日、主治医から診断結果を家族と一緒に聞く。やはり進行性の下咽喉がんで、頸部リンパ節に転移をしていてステージ4となるという。
頸部の腫れは以前から気になっていたが、それががんの転移によるものとは、思わなかった。
根治させる手術は、声帯ごと切除して小腸の一部を摘出して食道と繋ぎ、頸部に気孔を開ける大手術になるが、鼻の奥の上咽頭にも腫瘍の疑いがあるため、化学療法(抗がん剤)+放射線治療の選択となるという。
治療に入る前に検査と治療方針について納得して貰うことが大切だから、セカンドオピニオンを受けるようにすすめられる。一応、癌研有明病院に紹介状を書いてもらう旨依頼するが、行きつけの飲み屋で知り合って十数年来の知己であり、T医科大学病院で放射線治療の講師をしているK医師に、検査入院先の大学病院の評判を聞いて欲しいと、飲み屋のマスターに頼む。
退院した翌日、行きつけの飲み屋に妻と行くと、2週間前一緒にスキーに行ったK医師とM看護師が来てくれ、こう言った。
「うちの耳鼻咽喉科のY教授は優秀だし、放射線治療もS医科大学より優秀だよ」と受診をすすめられ、来週外来予約を入れるという。好意に甘える。
2月25日に、放射線科のK医師の紹介状を持って外来で耳鼻咽喉科のY教授を受診する。S医科大学の診断書を見るなり、明後日にPET画像を受診できる所を探すように看護師に指示し、鼻から内視鏡を入れ、写真を撮る。
がん自体はそれほど大きくないが、鼻の奥に悪性腫瘍があれば、治りませんと宣告される。わたしは「治療はしてもらえるのでしょうか」と聞くと、Y教授は「いつだってどんな状態であろうと、治療はします」と断言、頼もしい。
結局、Y教授のもとで治療を行うことを決める。
小雪まじりの27日、PET検査を受け、その後Y教授の診察を受ける。声帯を温存できる化学療法と放射線治療を第1選択にして、来週月曜日から治療を始めると言い、副作用についても説明される。
「手術をしないからといって安心してはいけません。ある患者に言わせれば、放射線治療は喉に焼け火箸を当てられるほど痛いといいますから。それぐらいでないと、手術と同等の効き目が出てこないでしょうけどね」
とY教授は言い、がんの原因はタバコと酒ですと断言された。
紫煙けむる酒場での日々 新宿ゴールデン街の記憶
わたしはタバコと酒が下咽喉がんの原因ですと言い渡されたとき、男性誌の編集をやっていた昔日、ライターたちと夜毎新宿ゴールデン街で飲み歩いた日々を思い出していた。
わたしが中堅出版社のS社に途中入社したのは、1974年。その頃、料理編集をやっていたわたしは、料理全集をつくったらどうかと直属の上司に提案した。その企画が全24巻で決まったのは、提案して数日後で、にわかづくりの編集部で作業にとりかかった。
オールプロセス写真のその料理全集は、売れに売れた。ちょうどわたしたち団塊の世代が家庭をもつ時期と重なったからだ。当時で1冊2400円と高価な本が、1巻目は百万を超す部数を売ったというから、セールスマンを潤し、会社も莫大な利潤を上げた。そのヒットで潤った社に、わたしは自分たち世代が読む市販男性誌を提案、創刊編集部に加わった。
男性誌を編集したことのないわたしたちは、書き手を探し求めた。当然、飲みながらの面談が多くなる。創刊してからもライターと夜毎、紫煙がけむる新宿ゴールデン街で飲み明かした。それが下咽喉がんの遠因なのだろうかと、いまになって思う。
その後、書籍の編集を手がけ、再度、料理ムックなどの編集に携わったわたしは、50歳のときにペンネームで『肉じゃがは謎がイッパイなのだ!』という本を上梓する。これは「昔ながらのおふくろの味」とキャッチフレーズが付く肉じゃがだが、わたしは子供時代に食べたことがないと気づき、肉じゃがはいつ生まれたかを調べて書いたものだ。これで書く楽しさを覚える。
定年までいたらフリーとして名乗るのは難しいと思ったわたしは、55歳を機に退社、フリーライター&エディター業を始め、『簡単便利の現代史』という現代社会批評を上梓する。 会社勤めしか知らなかったわたしは、フリーの仕事を軌道に乗せるのに四苦八苦したが、還暦を迎えたときに、知的障害者の施設が沖縄サミットの晩餐会で乾杯のワインをつくるに至るまでを描いた『こころみ学園 奇蹟のワイン』を上梓、何とかノンフィクションライターの末席に連なった。
そして、次の本にとりかかったときに、がんを宣告されたのだ。わたしは、あと何年ライター業ができるのだろうかと頭の隅で考えながらも、まずは目の前の病を退治しなければ先へは進めないと思った。
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