「命を使ってやるべきこと」に気づいたのはラッキーです 他人の痛みを自分の痛みとして感じられるようになった 元NHKキャスター/フリーアナウンサー・松本陽子さん
18歳で父をがんで亡くし、自らも33歳のとき、子宮頸がんを発症。闘病中に「患者さんのために、役に立つことがしたい」と決意し、当時勤務していたNHK松山放送局を退職。その後、患者・家族会「愛媛がんサポートおれんじの会」を設立。患者力の向上を目指す。がん対策推進協議会患者委員も務め、安心できるがん医療の構築に向けて奔走中。
08年に活動を開始したがん患者・家族会の「愛媛がんサポートおれんじの会」。その代表として多忙な毎日を送る1人のがんサバイバーがいる。NHK松山放送局の元キャスター松本陽子さん(43歳)だ。松本さんは33歳で子宮頸がんを発症。その後回復し、「おれんじの会」を立ち上げた。「『何かやらないといけない』という思いが強い」と語る松本さん。松本さんを新たな使命へと駆り立てたがん経験とは、どのようなものだったのか。
心に深い傷を残した父との別れ
松本さんは高3のとき、がんで父を亡くしている。享年54歳。告知の是非など議論にすらならなかった頃で、本人には最後まで「胃潰瘍」とウソをつき通した。19歳の松本さんは父の闘病を見守りながら、間近に迫った父の死に、ただ向き合うほかなかった。
「あれでよかったのかな」
そんな後悔に苦しめられるようになったのは、父の死から半年ほど過ぎた頃のことだ。
きっかけは、原崎百子さんの闘病記『わが涙よわが歌となれ』を読んだことだった。そこには、肺がんの告知を受けた原崎さんが、家族と一緒に病と向き合い、苦しみを乗り越えていくさまが克明に綴られていた。原崎さんを支え、生と死の意味をみつめる家族の姿――松本さんはまぶしさに胸を衝かれる思いだった。
(こんなふうに家族で父と向き合うこともできたんだ、なのに自分は何をしていたのか。最後まで病名を隠し、「さよなら」も「ありがとう」も言えないまま別れてしまった。私は結局、父の病気と真正面から真剣に向き合うことができなかったのだ)
がんが進行して会話も難しくなり始めた頃、父がこうつぶやいたことがある。
「なんでこんなにしんどいんや」
その言葉に答えるすべを知らず、次第に父と話をしなくなった。病室で付き添いながら、松本さんは受験参考書を広げていた。あの大切な時間を、なぜ自分はむざむざと浪費したのか――後悔が深々と松本さんを責め苛んだ。
「父ががんになった時点で、私たち家族はもっと多くの情報を得ておくべきだった。当時はインターネットもないし、得られる情報に限りがあったのは事実です。それでも、病気はどう進行するのか、薬にどんな副作用があるのかを家族が知っていれば、もっと対応のしかたがあったんじゃないかと思うんです」
臨終の言葉は、「遠くへ」だったという。九州の大学の受験を計画していた松本さんに、「遠くへ行くな」と言いたかったのか、「遠くへ行ってしまうんだな」と言いたかったのか。言葉の真意はついにわからなかった。
「父が最期に遺した『遠くへ』という言葉。それは、私たちが何もわかりあえなかったことの象徴でした。そのことが、25年経った今も、とてもつらいんです」
松本さんは声をふるわせた。
メディアにも医療界を変えることができる
松本さんがマスコミの世界で働き始めたのは23歳のとき。医学部受験に失敗した後、NHK松山放送局のニュース番組付きキャスターに採用された。メディアの側から医療と向き合いたい――そんな思いに火がついたのは、当時の上司との出会いがきっかけだった。
かつて国際報道で活躍し、難病をわずらって故郷の松山局に異動した上司は、車椅子で医療系の番組作りを続けていた。父をがんで亡くしたことや、医学部を志望していたことを打ち明けると、上司はこういった。
「医療界を変えられるのは医療者だけじゃない。メディアにもできることがあるよ」
上司の言葉に励まされ、松本さんは医療関係の番組作りに精力的に取り組んだ。キャスターといっても、スタジオで原稿を読むだけが仕事ではない。自ら企画を立て、取材に出かけては番組の構成や台本も作った。当時、NHKの近くにあった四国がんセンターにも、三脚を担いでカメラマンと足しげく通った。
「当時は、美容院で髪を整えてもらっている間も仕事してましたね。気がついたら、3カ月休みをとっていなかったこともある。忙しいけど楽しくて、もう仕事に夢中でした」
がんの告知を受け、「ラッキー」と思った
体調に変化を感じたのは、キャスター生活10年目を迎えた32歳のときのことだ。疲労と不正出血が続いたが、婦人科に対する敷居の高さもあって受診を1日延ばしにしていた。だが、疲れは日を追うごとにひどくなり、朝、寝室からトイレに行くのもままならなくなった。「これはただごとではない」と感じ、1年後、地元の著名な女性医師を訪ねた。検査の結果は「限りなくクロに近い灰色」。四国がんセンターで精密検査を受けたところ、子宮頸がんの疑いが濃厚であると告げられた。だが、「意外にもそれほどショックは感じなかった」と松本さんはいう。父の闘病を目の当たりにして、「いつかは自分も」と覚悟ができていたのかもしれない。その反面、その日何を着ていて、どんなバックを持っていたかを今でもはっきりと覚えている。そのくらい、がんのインパクトは強かった。
告知を「チャンス」ととらえる、相反する感情も経験した。
「傲慢かもしれませんが、ラッキー、と思いました。それまで医療の取材をしてきたものの、自分は所詮、取材者でしかないという思いがあったのも事実。これで患者の側に立てる、よりリアルな記事が書けるだろうと思ったんです」
これからは部外者ではなく、当事者として“本物”の取材ができる。松本さんのジャーナリスト魂がムクムクと頭をもたげた。同時に「自分のがんは早期がん」で、それほど困難な治療にはならないだろうと、楽観的な見通しを抱いていたのも事実だった。だが検査の結果、ステージ1bの子宮頸がんであることが判明。99年7月に単純子宮全摘術(*)を実施し、その後ブリプラチン(一般名シスプラチン)と5-FU(一般名フルオロウラシル)、ペプレオ(一般名ペプロマイシン)を併用した化学療法が3クール行われた。
抗がん剤の投与は最大量まで行われ、ひどい副作用が松本さんを襲った。骨髄抑制(*)により白血球と血小板が治療前の10分の1まで減少。副作用対策もあまり効果がなく、家族以外は面会謝絶の状態が続いた。口内炎だらけで食事も満足にできず、下痢や結膜炎にも苦しめられた。高熱で呼吸困難に陥り、ナースコールをしたこともある。酸素吸入器でかろうじて呼吸をつなぎながら、「死神と目が合った」と感じた。当事者の目でがんを見てやろうという傲慢な決心は吹き飛ばされていた。
*単純子宮全摘術=子宮頸部、体部だけを摘出する手術
*骨髄抑制=がん治療で抗がん剤、放射線などにより、一定期間骨髄の造血能が障害される状態
取材で患者を泣かせた苦い思い出
ともあれ、自らが患者となったことで、がんに対する理解が格段に深まったのも事実だった。
「痛みや不安は、想像だけでは限界があります。もちろん、私には乳房喪失の痛みはわからないし、がんが再発した人の恐怖は想像するべくもない。ただ、自分が患者になってみて、そのギャップが理解できるようになった。それは大きかったですね」
実は松本さんには、過去に苦い取材経験がある。
自らのがんが見つかる少し前、乳房再建を経験した乳がん患者にインタビューしたときのことだ。再建後の喜びをきわだたせるためには、「乳房を失っていかにつらかったか」をカメラの前で語ってもらう必要があった。だが、患者はなかなか思うように心の内を語ってはくれない。具体的なエピソードを引き出そうと何度も質問をくり返すうちに、女性はとうとう泣き出してしまった。 あのとき、どんなに自分がむごいことをしたのか――自分も患者になってみて、松本さんはそのことを痛感したという。
「患者さんが口にできないほどつらいと感じていることに、自分は土足で踏み込んでしまった。やっとふさがりかけていた傷口を、自分はこじ開けて人目にさらそうとした。もし自分に病気の経験があれば、もっと違う聞き方ができたはず。本当に申し訳ない、と深く反省しました」
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