多重がんに襲われた脳外科医が、がんになって学んだものとは?
がんで死ねたら幸せと思い込む。それが私の死との向き合い方

取材・文:吉田燿子
発行:2009年9月
更新:2013年8月

  

冨田伸さん
冨田伸さん(脳神経外科医、緩和ケア病棟顧問)

とみた しん
1970年、東京医科歯科大学卒業。国保旭中央病院に赴任。以来、約40年間にわたり、同院の脳神経外科医として地域医療に携わる。91年から千葉東部ターミナルケア研究会代表を務め、99年より旭中央病院の緩和ケア病棟部長を兼任。現在は緩和ケア病棟顧問を務める。自身も、04年大腸がんが発覚。以後、甲状腺がん、前立腺がん、膀胱がんとつき合いながら、現在も診療に携わっている

脳神経外科医を襲った数々のがん

写真:千葉東部ターミナル研究会

名前は変わったが、1985年から続いている千葉東部ターミナル研究会。
冨田さんは研究会の代表世話人も務めている

地域医療の世界でターミナルケアに取り組みながら、自らもがんを発症。その体験を講演などで語りながら、現役の医師として活躍している人がいる。国保旭中央病院の脳神経外科主任部長・冨田伸さん(64歳)だ。

5年前に大腸がんが見つかって以来、甲状腺がん、前立腺がん、膀胱がんを次々に発症。がん体験を通じて、それまで自分が身をおいていた医療のあり方にも疑問を感じるようになった。

苦しみを克服するために読書にふけり、さまざまな死生観を学んだという冨田さん。死と向き合うことで、それまで気づかなかった家族の絆を見つめることができたという。

「今でも、死を受容できているかどうかはわからないんだけどね」と語る冨田さん。緩和ケアにも造詣の深い医師として、冨田さんは自分のがん体験とどのように向き合ったのか。その軌跡をたどってみたい。

地域のターミナルケアの立ち上げに尽力

写真:国保旭中央病院の緩和ケア病棟

冨田さんらが中心となって立ち上げた国保旭中央病院の緩和ケア病棟。
広くゆったりとしたスペースでは、演奏会なども行われている

茨城県の筑波山麓で生まれ、「子供の頃は電気関係の仕事につきたかった」という。だが、原子力発電所の技術者である兄を通じて、その仕事の難しさを知り、技術者の道を断念。名将・三原修監督率いる大洋ホエールズ(現・横浜ベイスターズ)の球団ドクターになることを夢見て、医師を志した。

1970年東京医科歯科大学を卒業し、74年に千葉県旭市の国保旭中央病院に赴任。以来、約40年間にわたり、同院の脳神経外科医として地域医療に携わってきた。

91年3月からは千葉東部ターミナルケア研究会の代表を務め、99年より旭中央病院の緩和ケア病棟の部長も兼任。地域における緩和ケアの立ち上げと充実にも深くかかわるなど、毎日多忙な日々を送っていた。 ターミナルケアに深くかかわりながらも、自分がその当事者になる可能性など、つゆほども考えたことはなかったという。

腰椎狭窄症がきっかけで大腸がんが発覚

そんな冨田さんが、人生の転換点を迎えたのは04年7月のことだ。左足に激痛を覚え、尿を出すことも、歩くこともできなくなった。検査の結果、腰椎狭窄症と診断され、手術。「便の検査で潜血反応が出た」と知らされたのは、まだ入院中のことだった。

こんなのよくあることだから、自分は大丈夫――そういって退院しようとする冨田さんに、家族はこういった。

「この検査をしないかぎり、家に帰って来てはダメ」

家族の意向に折れる形で、大腸の内視鏡検査を実施。8月3日、大腸がんが発覚した。ステージ(病期)は1a期。幸い早期がんではあったものの、ショックは大きかった。

「うわあ、これで自分もがん患者か、と……。頭が真っ白になり、死を覚悟しました」

ターミナルケアの勉強会を主宰し、緩和ケア病棟の部長として、多くのがん患者とふれあってきた冨田さん。しかし、いざ自分が患者の立場になってみると、「患者のことを何もわかっていなかった」ことに気づいた。それまで、医療者として終末期の患者と向き合い、患者と一緒に病気と闘っているつもりでいた。しかし、それはやはり「他人事」でしかなかった、と冨田さんはいう。

「病院ではよく“患者満足度”ということをいいますが、病気になったら不満足が基本。『不満足度がいかに軽減されるか』ということでしかないわけです。自分が病気になって、それがいかに医療者側の傲慢であったか、ということに気づかされました」

死と向き合ったときの実感は、実際に死と直面した者でなければ味わえない。自分が医師として築きあげてきたはずの知識と経験が、砂のように指の間からすべり落ちていくのを、冨田さんは感じていた。

自分がいなくなったら妻の介護はだれがするのか

2000年から付けている10年日記

2000年から付けている10年日記。
その日食べた物から、起きた出来事、病気のことも含めてすべてがこの日記に記されている

冨田さんの10年日記には、この頃の揺れる心境が克明に記されている。

「娘に、大事の時には母さんのところに行ってくれるよう頼む」

「(病気を)受容しているか疑問、まだ“取引”の段階ではないか」

「不安は生への欲望の反映か。正常反応ととらえよう」

来年の8月3日はもう来ないかもしれない――10年日記の翌年以降の欄を書きつぶし、苦しい胸の内を連綿とつづった。

8月27日に手術を受け、大腸を20センチほど切除。早期がんということが救いだったが、単調な入院生活を送っていると、おのずと不安も募ってくる。看護師の目を盗んで携帯メールで家族や知人と連絡をとりあい、遺影の準備や身辺整理も始めた。

なかでも冨田さんを苦しめたのが、リウマチを患う妻への思いだった。妻の身体は重いリウマチに冒され、両股関節や両膝関節に人工関節を入れる手術も行っている。娘2人が巣立った今、妻の介護は冨田さんの役目だった。その自分がいなくなったら、妻の世話はだれがするのか――。

それからは限られた1日1日を大切に生きよう、と心に決めた。妻のために食事を作り、シャワーや洗髪を手伝う。それまで日課としてこなしていた作業の1つひとつに、ひとしおの思いを込めるようになった。妻と過ごす時間のありがたさが胸に迫り、何気ない日常の出来事が、かけがえのないものに変わっていった。

甲状腺がん、前立腺がん、膀胱がんを次々に発症

だが、病魔は冨田さんを放っておいてはくれなかった。経過観察のために受けたPET検査で、今度は、甲状腺がんと前立腺がんが見つかったのだ。

「またがんか、イヤだなあ、という感じでしたね。大腸がんのときと同じように早期だったらいいなあ、と思いました。甲状腺がんは確率的に性質のいいがんが多いといわれているから、それに賭けるしかない。とはいえ、万が一ということもあるから、不安はありましたね」

05年1月25日に甲状腺がんの手術を実施。05年7月に前立腺がんの生検を行ったところ、骨盤への転移が見つかった。進行がんに対するホルモン治療が始まり、現在はエストラサイト(一般名リン酸エストラムスチン)とベサノイド(一般名トレチノイン)を服用しているという。

06年夏頃になると、血尿が出るようになった。最初は軽く考えていたが、カレーライスのような褐色の血尿が大量に出たのを機に検査を受けたところ、今度は膀胱がんに冒されていることがわかった。膀胱のなかに5、6個の腫瘍が見つかり、内視鏡下手術で切除。その後も再発を繰り返し、08年には弱毒性結核菌(BCG)を注入するBCG療法をスタート。2カ月間にわたり、合計8回の治療を行ったが、今年に入って再びがんが見つかり、4月に内視鏡下手術で腫瘍を切除した。

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