たとえ来月死んでもいい。最期の瞬間まで幸せでいたいと、彼女は抗がん剤を拒否した 次々にがん転移に襲われながらも、自分の生き方と美学を貫く人気芸者・まりこさん

取材・文:吉田燿子
発行:2009年8月
更新:2018年10月

  
まりこさん

まりこ
30歳で花柳界デビュー。大井海岸きっての人気芸者として、あちこちのお座敷に引っ張りだこの日々を送る。その後独立、「まつ乃家」の女将に。40歳で受けた東京都の区民検診で子宮頸がんが発覚。がんは子宮体部、S状結腸、肝臓、骨盤内リンパ節、肺、傍大動脈リンパ節に転移。現在も療養しながら、「まつ乃家」の女将として舵を切る。

ある日を境に、彼女は抗がん剤治療を止めることを決意した。東京は品川・大井海岸で、芸者置屋「まつ乃家」を営むまりこさん。勝気でおちゃめなまりこさんは、江戸前を地でいく下町芸者だ。子宮頸がんから始まったがんは、子宮体部、S状結腸、肝臓、肺へと転移……、今もがん細胞は体の中にある。だけど彼女の生き方はぶれない、変わらない。それはなぜか――。自分の責任をとれるのは自分しかいないから。

花柳界を引っ張る「まつ乃家」まりこさん

写真:お座敷で三味線を弾くまりこさん

08年11月「稀音家 六千舞」(きねや ろくちまい)として娘まい可さんがプロとして三味線デビュー。前列にまい可さん(左)、栄太朗さん

かつて、東京の品川や大森海岸・羽田などの一帯には花街が広がっていた。その一角にある大井海岸も明治以降は花柳界として大いに隆盛を誇ったという。

だが、昭和53年には大井海岸の見番が閉鎖され、花柳界は衰退の一途をたどった。今は3軒の芸者置屋が往時の伝統を伝えているが、なかでもインターネットなどを駆使した斬新な企画で注目を集めているのが「まつ乃家」だ。その女将を務めるのが、まりこさん(46歳、本名・広瀬まり)である。

勝気でおちゃめなまりこさんは、江戸前を地でいく下町芸者。30歳でお座敷にデビューして以来、大井海岸きっての人気芸者として活躍してきた。化粧品セールスと芸者を両立させながら2人の子を育て、それぞれ栄太朗(本名 栄之介)・まい可(麻依可)という1人前の芸者に育て上げた。

そんなまりこさんが子宮頸がんを発症したのは、40歳のときのことだ。養生とは無縁の生活で無理を重ね、その後も子宮体部、S状結腸、そして肝臓や骨盤内リンパ節、肺、傍大動脈リンパ節への転移を繰り返してきた。09年3月には、自らの意志で抗がん剤の服用をストップ。免疫力を高めながら、がんと共存共栄する方向に舵を切った。

「間違いなく言えるのは、がんは自分が作った細胞だということ。だから、最後まできちんと責任をとり、おとしまえをつけてやろうと思います」

こう、まりこさんは言う。

12歳で舞妓に憧れ芸の道を志す

まりこさんは4人姉妹の次女として生まれ、幼い頃から大井海岸の芸者衆の艶姿を見て育った。芸者になりたいと思ったのは12歳のとき。近所の大森海岸公園で、京都・祇園の舞妓のカレンダーのモデルにスカウトされたのがきっかけだった。

このとき、まりこさんは運命的な出会いを経験している。撮影のとき、祇園で髪結いさんがまりこさんに花かんざしを渡し、「祇園にいらっしゃい」と誘ってくれた。しかし、舞妓になりたいと言うまりこさんに、両親は強く反対。父のがん発病が重なったこともあって、高校に通いながら夜働いて稼がなくてはならなくなった。舞妓修行には、着物だ何だと出費がかさむ。どんなに憧れようと、それは夢のまた夢でしかなかった。

高校卒業後は美容師として働くも、交通事故で左腕を粉砕骨折してしまい、昼は化粧品のセールスを、夜は銀座のクラブで働いた。22歳で結婚し、長男の栄太朗さんを出産。ある日自宅にいると、ふと、祇園の髪結いさんからもらった花かんざしに目が留まった。かつて封印した芸者への憧れがふつふつと甦り、「よし、これからは好きなことをやろう」と、まりこさんは芸者をめざして、三味線や踊りを習い始めた。

とはいうものの、仕事と育児、芸事を両立するのは並大抵の苦労ではない。朝6時前に起きて家事をこなしてから出勤し、夜仕事が終わって子どもを迎えに行き、夕食を食べさせ、踊りや三味線の稽古に通う日々。夜中、家で三味線を浚っていると突然電話がなり、「今、何時だと思ってんの!」と、階下の人に怒られたこともある。

2人以上なら師匠が家まで来て出稽古してくれるということもあって、娘が2歳になっておむつがとれると、同時に踊りの稽古をさせた。

30歳で花柳界デビュー
大井海岸きっての人気芸者に

写真:お座敷で三味線を弾くまりこさん
お座敷で三味線を弾くまりこさん

そんな努力のかいあって、まりこさんは30歳で芸者デビューの日を迎える。幸い、寂れる一方の大井海岸にも、まだ芸者の置屋が1軒だけ残っていた。早いとはいえないデビューだったが、それでも当時の大井海岸では1番若い芸者だった。それだけに、最初の頃は苦労も絶えなかったという。

「けっこういじめられましたよ、私、生意気だったから。その頃、大井海岸では芸者は日本髪にせず、普通に髪を結ってたんです。でも、髪結いは先輩からと決まっているので、自分の番を待っていると、お座敷前にご飯を食べる時間もない。……だから日本髪のカツラを使うことにしたんです。先輩からの風当たりは強かったけど、私の日本髪姿が可愛いと(笑)、お客さんにも受けて。出るクイは打たれるけど、出過ぎるクイは打ちにくい。じゃあ、出過ぎることに決定、みたいな(笑)」

まりこさんにとって、芸の道はまさに天職ともいえるものだった。美人で快活で座持ちがうまいとあって、たちまち大井海岸きっての人気芸者になった。そして2人の子どもたちも成長するにつれ、芸者の卵としてお座敷を務めるようになっていた。窮屈な芸者置屋のシステムに縛られることなく、独立して自由に活動したい――40代を目前にして、まりこさんは夢の実現のために全力疾走していた。


40歳の区民検診で子宮頸がんが見つかる

だが睡眠もろくにとれない過重労働が身にこたえないはずはない。03年10月、40歳の区民検診で子宮頸がんが発覚。近くのT病院で細胞診を受けたが結果はステージ(病期)3bの進行がん。医師は子宮全摘出手術を勧めたがまりこさんは拒否した。

「まだ子どもを産む可能性もあったし、臓器摘出というのがいやだったんです」

独立を間近に控え、仕事でも正念場を迎えていた。10月22日に円錐切除術を受け、退院するやいなや、11月3日のショーに向けて練習を開始。本番では、膿を抜くためのドレーンを子宮頸部に挿入したままの舞台。舞台に夢中で気づかなかったが、終了後ドレーンが外れていることに気づき、後日検査でちゃんと安静にしていましたか? と聞かれ……返す言葉がなかった。

「今思えば、子宮頸がんを甘く見ていたんですね。がんさえとっちゃえば大丈夫だと思い、無理を重ねたんです」

一方、仕事のほうも試練のときを迎えていた。独立して芸者置屋「まつ乃家」を開業したものの、芸者が親子3人だけとあっては、仕事もなかなか思うように増えない。集客のための営業やイベント企画に忙殺されるなか、毎月の術後検査からも足が遠のいていった。

不正出血と腹部の腫れに気づいたのは、05年も押し迫った頃のことだ。11月に子宮体部への転移が発覚し、12月に子宮全摘術を実施。クリスマスには東京・有楽町のホールで「都鳥」を踊る予定だったが、急きょ、娘のまい可さんを代役にたて、入院中に病院のロビーで踊りを教えた。ただ、それでも危機感を感じることはなかった。

「お医者さんにも、『婦人科のがんは子宮を全摘すると転移しにくい』と言われたので、安心しちゃったんです。私は若い、元気、大丈夫――と変な自信があってね。『これで、がんとは縁が切れた』と思ってしまった」

S状結腸、肝臓……
止まらぬがん転移

一方、努力のかいあって、置屋のビジネスは徐々に軌道に乗りつつあった。まつ乃家が抱える芸者衆の数も順調に増え、埼玉県川越市まで商売を広げ、術後の養生とは無縁のハードな日々が続いた。

しかし、06年夏頃から、まりこさんは再び体調の変化を感じ始める。原因不明の血便や便秘が続き、クリニックや専門病院を5軒ほど回って注腸検査やMRI(核磁気共鳴画像診断法)検査を受けた。だが、結果は「異常なし」。07年8月22日。突然、七転八倒するほどの腹痛に襲われた。T病院に駆け込んで大腸の内視鏡検査を行ったところ、結腸にこぶし大の腫瘍が見つかった。患部は赤紫に腫れ上がり、血が滲み出して、ブロッコリーの房のように盛り上がっていた。素人目にもわかるほど凶悪な顔つきだった。がんは腸に転移し、いつのまにか腸閉塞を起こす寸前まで進行していたのだ。末期の状態だった。

急きょ人工肛門がつけられ、9月8日に手術が行われた。大人の男の人のこぶし大もある大きながんと19個のリンパ節を摘出した。そして21日、術後の検査で肝転移が発覚。

「翌週から化学療法を始めます」と医師は告げた。そのとき、まりこさんの脳裏を、入院中に見たがん病棟の光景がよぎった。髪が抜け落ち、抗がん剤の副作用で消耗しきった患者たち。その姿が目に浮かび、まりこさんは抗がん剤を断固拒否。医師は怒り、吐き捨てるように言った。

「あなたの5年生存率は0パーセントですよ。抗がん剤による化学療法を断るなら、もうこの病院では何もすることはありません。明日退院して下さい」 即刻、退院を言い渡された。

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