会社を守るため、家族を守るために彼女は病気を隠すことを決意した
孤独な女性経営者の闘病生活。支えたのは患者仲間だった

取材・文:増山育子
発行:2009年7月
更新:2019年7月

  

大東和子さん
大東和子さん(大東寝具工業株式会社会長・がん患者サロン「うずらプラナスの会」世話人)

おおひがし かずこ
1978年、会社経営の夫が急逝したことに伴い、大東寝具工業株式会社(京都市伏見区)の社長に就任する。2001年、自身の大腸がん闘病を機に現職。「ものづくり」が大好きで、「寝具研究家」の顔も持つ。2008年3月より国立病院機構京都医療センター内がん患者サロン「うずらプラナスの会」世話人

本音で話せる安らぎの場 京都府初のがん患者サロン開設

2008年3月。寝具会社会長の大東和子さんは、国立病院機構京都医療センター副院長・小泉欣也さん(当時。現在は京都大学外科交流センター理事長)から電話を受けた。

京都府の地域がん診療連携拠点病院である京都医療センターに、府内初の「がん患者サロン」が開設されるので、その世話人になってくれないかというものだった。

「明日、オープニングセレモニーがあります。来てくださいますか?」

突然の依頼に驚いた大東さんだが、翌日のオープニングではがん患者サロン「うずらプラナスの会」の世話人として役目を引き受けていた。

写真:京都医療センター1階ロビーの一角に仕切られたサロン

京都医療センター1階ロビーの一角に仕切られたサロン。和やかな雰囲気の中、紙コップの飲み物を片手に、会話が弾む

「がん患者サロン」とは、がん患者が気軽に集い、相談事や思いを語り合う交流の場。「うずらプラナスの会」は、NPO法人「京都がん医療を考える会」がセンターの協力を受けて運営する院内サロンである。

サロンは毎週金曜日、午前10時~午後3時まで、京都医療センター1階ロビーの一角を仕切り、開かれる。その時間内の出入りは自由で、毎回15人ほどが訪れる。毎週通う人も、他の病院から足を運ぶ人もいる。

和やかな雰囲気のなか、紙コップの飲み物を片手に会話が弾む。雑誌や資料などが机の上に広げられ、おのおのが手にとって見ている。がん患者サロン設立の立役者である小泉さんは、毎回必ず顔を出し、患者の話に耳を傾ける。

悩みを解決する場としてサロンを

今春、「うずらプラナスの会」が発足して1年が過ぎた。その間サロンを訪れた人数は延べ730人を超え、患者や家族からは「先輩患者さんの体験談は参考になるし、がん患者同士でつらさがわかりあえる。こういう場を探していた」と好評である。

「サロンの目的はただ集まって歓談するのではなく、悩みに対して積極的に対処していきます。実際に多い話題は、たとえば大腸がんならストーマ(排泄口)のケアについてなど、患者さんの実体験からの情報交換ですね。それと『自分の話を聞いてほしい』という方も多いですね。ここでしか泣けないと涙する人もおられます」と大東さんは話す。

「がんの治療については先生に質問しなくてはなりませんが、家族に心配をかけているのが気がかりなどといった、心のあり方に関するお話は、あちこちから出てきます。『病気があっても病人にはならないでおこうね』とか、『心までがんにならないようにしよう!』って、肩を叩きあいながら、少しでも心が潤ったらいいですよね」

大東さん自身、「余命は1年ほど」と言われた大腸がん患者。診断されたとき「このことは誰にも言わない」と決心し、孤独な闘病生活を経験した。そして術後3年経って「私の病気はがんだったのよ」と周りの人たちに公表する。周囲はまったく気づかなかったという。

大東さんは「がんを隠してきたことは正解とは思っていない」と穏やかな表情で語る。

「人には言えない環境だったからそうしただけ。でもそれでよかったと思います。居直って強くなれましたから」

大東さんにとって病名を明かさず闘病することこそが、自分らしい生き方だったのだ。

がんのことは誰にも知らせない
夫のがん死からの教訓

写真:家族との1枚

家族との1枚。現在の大東寝具工業株式会社は大東さんの父親が創業した

病名を明かさないという決意の理由は31年前にある。

1978年、寝具製造会社を大東さんの父親から継いだ夫が、胃がんのために旅立った。享年42歳。

お酒好きの夫が飲めなくなり、みるみる痩せてきたのがきっかけだった。その直前に町医者で胃の内視鏡検査を受け、軽い胃炎と言われていたこともあって、夫はいくら勧めても病院へ行こうとしなかった

この痩せ方は尋常でないと思った大東さんは、町医者で撮ったレントゲン写真を持って国立京都病院(現・京都医療センター)に駆け込んだ。消化器内科の医師はそれを見るなり、「胃がん」と告げた。その当時はがんを告知せずに、本人には内緒にするケースが多く、夫には内科に検査入院して外科で胃潰瘍の手術をすると嘘をついた。

「肺にも転移し、痛みも出てきてはいたが、自分ががんとは疑ってもいないようでした」

病名を伏せているから、医師や看護師と口裏を合わせて、腰が痛いといえば「神経痛」とごまかし、点滴の中身は「ビタミン剤」と説明した。

数日後、退院したが、痛みがすぐに始まり、苦しむ日々が続く。痛み止めにモルヒネを使おうとすると「なぜ神経痛にモルヒネなんか使うんだ?」といぶかられ、打つ手がなかった。

「昔からの言い伝えで『神経痛には焼き塩が効く』といわれていますから、夫は『焼き塩をしてくれ』と懇願する。フライパンで塩を炒ってタオルでくるむのですが、私にはとても熱くて持てない。でも夫はそのタオルを体に当ててその瞬間だけでも痛みがとれたと……。そんなことしかできなかった。『これ以上何もできないのかっ!』というのが夫の最期の言葉でした」

がんが発見されてから亡くなるまで3カ月。あまりに短く凄絶な闘病だった。

「告知することで違ったケアができたかもしれないと振り返った日もありました」

夫の急逝は大東さんの人生を大きく変えた。そのとき大東さんは39歳、2人の息子は中学生と高校生。嘆き悲しんでいる時間などない。急遽、大東寝具工業株式会社の社長に就任した大東さんの肩に会社経営という重責がかかった。

「名刺の渡し方から勉強しなくてはならなかったのですよ。でも、会社を潰すわけにはいかないと必死でした。2人の息子に経営をバトンタッチするまでは、私がやらなくてはいけないと」

当時25名いた社員は皆、奥さんについていくと口を揃えたが、つい先日まで経営者夫人として何不自由なく暮らしていた女性社長に、世間の風当たりは厳しかった。

「『あの会社は潰れる』という噂が流れましてね。社長という立場の信用がないことで。その後自分ががんの告知を受けたとき、あの悔しさを思い出して、決して口外しないでおこうと思ったのです」

これが病名を明かさない理由だ。

社長となって30年余り。時代の変遷とともにその変化に対応した事業展開を進め、厳しい不況の波も乗り越えてきた。だが、無我夢中で走ってきた大東さんに、またもや転機が訪れる。2001年、今度は大東さん自身に大腸がんが見つかったのだ。

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