20代でがんが発覚。出産直前までがん治療の後遺症に苦しんだ
がん、不妊治療を経て産まれた命。夫と一緒だから乗り越えられた
菰原純子さん(パタンナー*)
こもはら じゅんこ
1975年、埼玉県出身。東京モード学園を卒業後、都内のアパレルメーカーに就職。25歳のとき、子宮頸がんが発覚。円錐切除手術を受け、術後5年検診も無事終えて現在に至る。28歳で結婚、2009年2月、待望の第1子を出産
*パタンナー=デザイナーが書いたデザイン画をもとにして、立体的な服を作るための型紙を起こす人
がん、不妊治療 夫婦の絆が試された試練
瀟洒な1軒家の扉から、愛らしい赤ちゃんを抱いたお母さんが現れた。今年2月13日に長女を出産したばかりの菰原純子さん。25歳のときに子宮頸がんを発症し、円錐切除手術により克服。3年間の不妊治療を経て33歳で子供を授かったサバイバー(生存者)である。
自宅の居間には、結婚式の写真が何枚も飾られている。10歳年上のご主人はテレビ番組の美術担当。24歳のときに友人の紹介で出会い、28歳で結婚した。
「夫はいつも明るく振舞うムードメーカー的存在。割と心配性だけど、それを外には出さないようにしているところもある。主人の明るさに、いつも助けられている感じです」と菰原さん。
菰原さんが子宮頸がんを発病したのは20代。治療後の経過が順調だったこともあって、さしたる不安に苛まれることもないまま、5年間の術後検診を終えた。
だが本当の戦いはそれからだった。結婚後、希望していた子宝に恵まれず、不妊治療をスタート。不妊治療や出産で壁に突き当たるたびに、がん治療の後遺症に不安が顔をもたげる。不妊治療の3年間は、夫婦の絆が試される試練のときでもあった。
25歳のときに子宮頸がんを発症
菰原さんは服飾のパタンナーとして12年のキャリアを持つ。東京モード学園を卒業後、都内のアパレルメーカーに就職。ブラック・フォーマルウェア部門で『ジバンシー』や『カール・ラガーフェルド』など著名ブランドのパターン・メーキングを担当し、その後は自社ブランドのカラー・フォーマルウェアの仕事を手がけた。
菰原さんが体に変調を感じたのは、入社3年目の夏のことであった。不正出血があり、体調もかんばしくなかった。夏バテでホルモンバランスでも崩れたのだろうと軽く考えていたが、当時同棲していた今のご主人に強く勧められ、しぶしぶ産婦人科を受診した。
「最近は若い人でも子宮がんの患者さんが増えています。ちゃんと検査をしたほうがいいですよ」
医師に言われるがまま、子宮頸部などから細胞を採取する簡易検査を受けた。結果は“グレーゾーン”。医師に精密検査を勧められ、1週間後、東京・世田谷区の至誠会第二病院を訪ねた。
「それでも、私自身は全然ピンと来なかったんです。検査すればいいんでしょ、という感じで、あまり重く受け止めていなかった。『自分はがんかもしれない』なんて、これっぽっちも思ってませんでしたから」
8月下旬に組織診を実施し、1週間後に結果を聞きに行った。診断結果は「0期の上皮内がん」。
「結果がよくないから、早く手術をしたほうがいいですよ」と医師に言われたが、「子宮頸がん」という病名すら知らなかったという。
「そのとき、いろいろと病気や治療の説明を受けたんですが、全然ピンとこなくて。だから、ショックはなかったですね。きちんと病気のことを理解しようとしていなかったのかもしれません」
手術が必要と言われて、まず頭に浮かんだのは厳しい上司の顔だった。仕事が多忙な時期だけに、休暇を申請しなければならないことを考えると気が重かった。
「2カ月後であれば仕事が一段落するので、それまで手術を延ばしてもいいですか」
「ダメです。あなたは若いから、1週間か10日後か、なるべく早く手術したほうがいい」
さすがの菰原さんも、医師の切迫した言葉に不安を感じないわけにはいかなかった。
彼(今の夫)が仕事から帰ってくると、菰原さんは検査結果を打ち明けた。彼は驚いた顔を見せたが、菰原さんに動揺した様子は見せなかった。
1週間後に入院し、レーザーによる円錐切除手術を行ったのは、9月上旬のことだった。術後の回復も早く、10日間であった入院の予定も、短縮して1週間で退院。その後は5年間、術後検診で通院したが、回復は順調そのものだった。
ともあれ、子宮頸がんの告知から入院・手術・退院後の通院期間に至るまで、菰原さんががんという病気を深刻に受け止めた形跡はない。告知のショックや治療への不安に苛まれることもなく、ただ時だけが淡々と過ぎていった。
「結局、あの頃は『がんになった』という実感がなかったんです。むしろ、時間が経過した今のほうが、『自分は怖い病気にかかっていたんだなあ』と感じますね。当時は若かったから、『治るのが当たり前』と思っていました」
28歳で結婚し、30歳で不妊治療をスタート
だが、克服したはずの子宮頸がんは、思わぬ伏兵となって菰原さんを苦しめることになる。
3年間の同棲生活を経て、28歳のときに、結婚。新婚1年目は2人きりで自由に過ごし、それから子作りに取りかかるつもりでいた。ところが、結婚後2年が過ぎても、待てど暮らせど妊娠の兆候はない。「1年間ふつうに夫婦生活を送っても子供ができない場合は、不妊症の可能性がある」――どこかで聞いた、そんな言葉が脳裏をよぎった。
「子宮頸がんの手術を受けたことが影響しているのかな」
菰原さんが真っ先に考えたのはそのことだった。にわかに不安になり、不妊治療を受けることを真剣に考え始めた。
「子供がいない家庭というのは、自分には考えられなかった。自分に子供ができないはずがない、不妊治療を続ければ絶対に子供はできる、そう信じていました」 30歳のとき、いよいよ不妊治療をスタート。病院は、南青山のオフィスからほど近い恵比寿のクリニックを選んだ。幸い、上司の理解とサポートも得られ、菰原さんは昼休みに会社を抜け出し、毎日クリニックに通いつめた。
とはいえ、不妊治療の精神的・体力的なつらさは、菰原さんの想像をはるかに超えていた。
「不妊治療では、受精を成功させるために卵子をたくさん採取しなければなりません。そのために、腟から注射針を入れ、卵巣に注射をして卵子を採取するんです。これは全身麻酔で行うので痛くないのですが、痛いのが筋肉注射。排卵を誘発するために10日間ほど病院に通い、毎日1本ずつ筋肉注射を打たなければならないんです。それ以外に血液検査もしたりするので、ときには1日3本ぐらい注射針を刺されることもあります。それが、かなりつらかったですね」
毎日会社を抜けては病院に通い、注射を続ける日々。肉体的にもつらかったが、精神的にもかなりのタフさが要求された。体外受精を行うたびに、「今度は妊娠できたかも」と期待がふくらむ。だが、その後には苦い失望と落胆が待っていた。期待して裏切られることの繰り返しで、落ち込むことも多かった。あまりのつらさに、夫にあたることもあった。不妊治療は険しい岩壁のように2人の前にそびえ立ち、それを乗り越えるには夫婦が心を1つにすることが必要だった。
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