「1人じゃないよ」30代でがんを患った女性が贈る“生きる”メッセージ 思いもよらなかった術後の後遺症。それでも彼女は生きる意味を探し求めた NPO法人HOPEプロジェクト理事長・桜井なおみさん
2004年夏、37歳で乳がんが発覚。その後、自らのがん体験や社会スキルを活かして小児がん・若年性がん患者の自然遊びの会(ボタニカルキッズクラブ)を始動。設立1年を契機にNPO法人化。自ら仕事を持つ傍ら、現在、NPO法人HOPEプロジェクト理事長として、サバイバーシップの啓発・普及を目指して、日々奔走中。
桜井なおみさんは環境・緑化分野の設計事務所でキャリアを積み重ねていた37歳のとき、乳がんが発覚。 術後は、ホルモン療法による更年期障害、適応障害と、心身ともにボロボロになった。そんな折、彼女を救ったのが「全ての人が共生する社会へ」という願いのもと発足した「HOPEプロジェクト」の活動だった。「病気になったことには意味がある。若いからこそできることがあるはず」そう誓った彼女は、活動を通してこう言う。「1人じゃないよと多くの人に伝えたい」
HOPE★プロジェクト発足 全ての人が共生する社会へ
「希望の言葉を贈りあおう」
そんなプロジェクトがひそかな広がりを見せている。全国のがん患者や家族から希望の言葉を募り、07年に第1集『ちょっとだけ凹んでいるあなたへ』(岸本葉子with HOPEプロジェクト編著)、08年に第2集『凹んだって、だいじょうぶ』を刊行。大きな反響を呼んだ。
「1人の言葉がいろいろな人の希望につながっていきました。希望は生きる力であり、希望が希望を育んでいく。この本の協力スタッフもサバイバーで、この活動をすること自体が、いつの間にかみんなの希望につながっていきました」
そう語るのは、桜井なおみさん(42歳)。NPO法人『HOPEプロジェクト』の発起人兼理事長であり、前述のプロジェクトの仕掛け人の1人でもある。桜井さんがHOPEプロジェクトを始めたのは、07年10月。サバイバーシップの普及と、ハンディキャップを負う人々が能力を発揮できる協働・共生型社会への貢献をめざして、活動をスタートした。
ボーイッシュで溌剌とした桜井さんは、バイタリティあふれるアラフォー世代。現在は仕事とホルモン療法を続けながら、HOPEプロジェクトの活動を展開している。
「サバイバーシップとは、その人らしく生きること。告知の瞬間から予後をどう生きるか、どうしたら自分らしく生きられるのかを考える。それがサバイバーシップという思想なんです」
緑の専門家としての華々しいキャリア
桜井さんは緑の専門家として華々しいキャリアを重ねてきた。1度は薬科大学に入学したものの、「都市計画に環境を組み合わせた、境界線のない大きな仕事をやりたい」との思いから、千葉大学園芸学部に再入学。そこで環境デザインを専攻し、卒業後は緑化事業などを手がける設計事務所に就職した。入社後はヒートアイランド対策や地球温暖化問題、環境団体の植生調査、再開発事業などにも携わった。30代前半のとき、3年にわたって浜名湖畔の国際園芸博覧会のプランニングを担当。入社以来、朝9時半から夜10時頃まで仕事をし、年間通算1カ月は会社の寝袋にもぐり込むほどのワーカホリックだった。だが、充実感もひとしお。
好きな分野で大きな仕事を次々に成功させ、「次期社長候補」と呼ばれるほどの活躍ぶり。難関と言われる国家資格や生涯の伴侶も得て、桜井さんはキャリアの王道を歩みつつあった。
「これ、がんですか?」37歳のときに乳がんが発覚
そんな桜井さんを突然病魔が襲ったのは、37歳のときだった。04年6月の乳がん検診で右乳房にしこりが見つかり、マンモグラフィとエコー(超音波)検査を実施。医師に見せられたエコー画像に、ぼんやりと影が写っていた。
「これ、がんですか?」
頭の中がグルグル回った。
針生検を行い、確定診断の結果を聞くまでの1週間、インターネットで乳がんの情報を片っぱしから調べた。
「乳がんは全身がん。自分は死ぬんだ」――と桜井さんは思った。
1週間後、確定診断の結果を聞くため夫と来院した桜井さんに、医師がこう告げた。
「悪性新生物ですね。クラス5です」
(何それ……5期ってこと?)
桜井さんは激しく動揺した。クラスとは細胞の悪性度を表す目安のことで、がんの進行度を示すステージとは異なる。実際はステージ2期、直径3センチ(診断時)のがんだったのだが、桜井さんはクラスとステージを混同してしまったのだった。
実はこのとき、桜井さんはすでに転院の意志を固めていた。医師の服装のだらしなさも含め、直感的に「この医師とは合わない」と感じていたのだ。幸い、引っ越したばかりの自宅近くには順天堂医院や駒込病院などがあり、病院選びという点では恵まれた環境にあった。乳がん学会のホームページなどを参考に「夜中に容態が急変したときでも行けるように」と、専門医がおり、自宅から徒歩5分の都立大塚病院に決めた。
大塚病院に連絡したところ、予約は3カ月待ち。だが、「実は私、がんなんです。なんとかなりませんか」と食い下がり、2日後に乳腺専門医の袴田安彦さんのもとを訪ねた。
「実は父も歯肉がんでベッドの空きを待ってるんです。そうこうしているうちに、自分まで乳がんの診断が出てしまって……」
「大変だったね。ストレス抱えちゃったでしょう。これからの君の人生と治療を一緒に考えていこう」
医師の言葉に、抑えていたものが堰を切ってあふれた。2時間半かけて治療法について説明を受けるうちに、希望の光が見えてきた。
夫の反対を押し切って化学療法を選択
桜井さんは、乳房全摘か温存かの選択にあたっては、迷わず全摘を選んだ。「がんが残っているような気がして嫌! ノイローゼになってしまう」というのが理由だった。
仕事の引継ぎを済ませ、3週間後の7月30日に手術を実施。右乳房を全摘し、腫れていた腋窩リンパ節も22個切除した。
手術翌日、桜井さんは腕がまったく上がらなくなっていることに気づいて、愕然とした。全摘手術では想像以上に広範囲の組織が切除される。「ショックでしたね……。それまで、すべて自分で判断、自己決定をして生きてきたのに、手術しただけで、手を伸ばして食卓の胡椒をとることもできない状態になってしまったことが……」
2カ月間、地獄のリハビリが始まった。がんの宣告を受けたときですら涙を見せなかった桜井さんも、リハビリのつらさには泣いた。思い通りにならない体を突然抱えこんでしまったことに、絶望感さえ感じた。
それでもリハビリ仲間と励ましあいながら、8月15日に退院。帰宅後もゴルフのパターを握ってリハビリを続けた。手術時の病理検査の結果は、2.5×1.5センチの粘液がん。幸い、切除したリンパ節にも転移は認められなかった。「今後はホルモン療法だけでいい」というのが袴田さんの見解だったが、桜井さん自身は化学療法を強く希望した。抗がん剤によって妊娠の可能性が失われることよりも、「再発したときに後悔したくない」という思いのほうが強かったのだ。
とはいえ、化学療法を受けることがすんなり決まったわけではない。桜井さんが化学療法を受けることに強硬に反対したのは、夫だった。実父を上咽頭がんで亡くした夫は、副作用対策も不十分なまま、化学療法で苦しんで逝った父の姿が忘れられなかったのだ。
「私は、今やれることは全部やりたいの!」
「僕は僕で、君が化学療法を受けることをなぜ止めなかったのかと後悔するのがいやなんだ!」
結婚して12年。夫が涙を流す姿をこのとき初めて見た、と桜井さんは述懐する。
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