多重がんを経験したデジタル印刷のパイオニアが語る「動じない生き方」
想像を絶する術後の後遺症――。悪戦苦闘しながら、ひとつひとつ乗り越えてきた
はたの ひろや
1952年、東京都北区生まれ。高校卒業後、数年間「プラプラ」したのち、21歳の時、父の会社「ラン印刷」に入社。40代には、完全に会社を引き継ぐ。1992年、デジタル印刷DTPを専門とする㈱ルナテックを設立、代表取締役社長に就任。現在に至る。1986年には、印刷製版工程の一部門を分業化した㈱クイックも創設している
印刷業IT化の大波を越えて
スリムな体躯に背広がよく似合い、長めの髪や明るい色調のネクタイがファッショナブルな印象を残す羽田野博也さんは、関連会社をふくめ、60人を超える従業員を抱える印刷会社、㈱ルナテックの代表取締役社長だ。
この20年ほど、印刷業はコンピュータ化にともなう大激動期にあった。以前は文字を手作業で張りこむなど、意外に職人芸の多い業種だったが、パソコンの急激な普及に伴い、たちまち「データで入稿、データで校正、データで印刷」が当たり前になった。
その大激動期に、当時「マイコン(マイクロ・コンピュータ)」と呼ばれていたパソコンを駆使し、デジタル印刷のシステムをいち早く構築。そのパイオニアとして引っ張りだこの活躍の末に、個人経営の印刷会社(羽田野さんは2代目)を、現在の規模まで育て上げた。
羽田野さんが胃がんの診断を受けたのは、仕事人として脂が乗った50歳のとき。そして昨年(08年)には、妻の死と時期を前後して、膀胱がんが見つかった。
2度のがん体験を経て、体の管理方法、そして体そのものは大きく変わった。妻の死にも激しく深い衝撃を受けた。それでも、羽田野さんの基軸をなすスタイルは、がん体験後の今も不変と思われる。それは、
「人生は死ぬまでの暇つぶし」
手術に伴う体の変化は受け入れざるを得ないが、それ以外は変えない、変えようがない。これが、若いときから一貫して彼が選んできた人生の過ごし方であり、言葉では語らないが、じつは今もこだわっている人生の過ごし方なのではないかと思う。
学生運動の嵐のあとに
印刷会社の長男に生まれたものの、跡を継ぐ気はさほどなかった。何をしていたかというと、
「高校卒業後、3~4年間、プラプラしていましたね」
羽田野さんの卒業は1970年。60年代にピークを迎えた学生運動が、急速に収束した時期に当たる。
「そのままプラプラしていたら、別の世界に行ったかもしれません。でも、当時はまだまだ『働かなければ食えない』という考えが、強かったですから。このまま仕事をしないのも変だな、と漠然と思っていました」
趣味が仕事と一体化して
入社後まもなく、父親は息子に多くをまかせるようになった。そして息子のほうは、出版社に出向いて仕事を受注するのが業務の中心で、それを淡々とこなす日々が続く。転機はIT化の波とともにやってきた。
今は当たり前となったDTP(デスクトップ・パブリッシング)という印刷形態。出版物のデザイン、レイアウトをパソコン上で行い、印刷物になるまでの全工程を、全てデジタルデータでやり取りするという手法だ。このDTPという手法を、20年ほど前に他社に先駆けて導入したのが、羽田野さんが立ち上げた㈱ルナテックだった。
当時を振り返って、羽田野さんは言う。 「普通、印刷屋は出版社に営業に行き、仕事をもらってきますが、このときばかりはお客さんのほうから『ぜひやってくれ』と言われました。まさに創成期でした。ぼく自身、コンピュータが好きで、趣味でパソコンいじりをやっていましたが、仕事と趣味がつながったという感じで……。かなりのめり込んでやっていました。やっと仕事がおもしろくなった、という感じでした」
元気に入院、壊れて帰宅
小さいながら、DTPの先端企業として会社が認められ、仕事も順調に回っていた。忙しい毎日が続き、50歳を超えたある日、羽田野さんは健康診断を受ける。
「10年くらい、つい面倒でドタキャンしていました。それが、なぜかその年はちゃんと受けて」
すると、バリウム検査で「胃に腫瘍の疑いあり」との結果が出た。かかりつけの内科医に相談したところ、「専門病院にかかったほうがいい」と勧められ、東京・築地の国立がん研究センターを受診。やはり、胃がんとの診断が出た。病期はステージ2。早期がんと言われた。
「ショックでした。とくに胃がんは、ぼくの中で命を落とすというイメージが強かったので。ただ、早期であれば基本的に切ったら治ると理解していたので、『大丈夫だろう』とは思いました」
腫瘍の大きさも小さく、早期ということだったので、手術まで1カ月待った。
「がんセンターは『繁盛店』ですからね。イメージとしては、ぼくの前に結構な人数の行列があり、緊急の人は先に回すので、待ち人数が減らないという感じでした。医者からは大丈夫ですよ、と説明は受けていましたが、やっぱり心配でしたね」
そしてその不安は的中する。
「開けてびっくりでした。胃の内部に出ていた部分は小さかったのですが、裏(腹腔内)に出ている部分がすごく大きかったんです。先生も『そこまでいっているとは』と驚いていました」
胃の全摘手術を受け、胃から3群目のリンパ節まで郭清(取り除くこと)した。脾臓をとったほうが再発しにくい、との研究があったため、臨床試験に参加し、脾臓もとった。
ただ、幸いなことに、組織検査の結果、リンパ節転移は見られなかった。また、腹腔内に腫瘍が出ていたわりには腹膜播種(お腹の中にがん細胞が散らばること)も見られず、一応は病巣部は全部取れた。とにかく、ほっとした。
けれども、違和感は術後にどっとやってきた。
「手術の10日後には退院させられましたが、それが信じられないほど、ひどい体調でした。まったく食べられないし、体力が落ちて、シャワーを浴びても髪が乾かせなかった。ドライヤーが持ち上げられなかったんです」
最大の違和感は、「元気で入院し、体を壊して帰ってきた」という感覚だった。
「普通、病院にはつらい状態で入院し、元気になって帰ってくるものでしょ? でも、ぼくの場合、自覚症状がなかったから、元気で入院し、元気じゃなくなって帰ってきた、というわけです」
想像を絶する術後のつらさ
手術する前から、胃がんの術後の後遺症は大変だということは、頭ではわかっていた。ただそれは、羽田野さんの想像を絶するものだった。
「寝ていると、いきなり消化液が『ブアー』と、口からあふれてくるんです。胸から食道を通って、熱いものがあがってきて。胸やけのすさまじいもので、ここ(喉のあたりを指して)のあたりが、焼けてくる感じです」
逆流性食道炎と呼ばれる後遺症だが、術後、これが毎晩続く。そして今でも、脂っこいものを食べると胸焼けしてしまうという。
「じつは昨日も焼肉を食べに行き、夜中に苦しみました。症状? 熱いものがガーッと逆流してきて、吐いてしまうんです」
さらに羽田野さんは続ける。
「脂っこいものや、コーヒーなんかは今でもダメです。とくに状態が悪いと、腫れや痛みもあり、膨満感がひどくて、消化器全部がトラブっている感じです。もっとも、今はコントロールがうまくなり、かなり防げるようになりました」
コントロールとは、たとえば、いろいろな姿勢をとること。
「おかしいなと思ったら、経験則からいろいろな姿勢を取って流れをよくするんです。ぼくの場合、右を下にして、ちょっと体をひねるようにして何時間か寝ていると、いいみたいです。人によって、方法は違うと思います」 豆乳を飲むことも、症状を抑えるには効くという。
「吐き気止めの薬なども飲むのですが、ぼくの場合、豆乳が1番症状が落ち着きますね。今でも、枕もとにはいつも豆乳を置いて寝ています」
逆流性食道炎のほかにも、術後、腸閉塞を2度経験。さらには、胆嚢を腫らして、痛みに七転八倒し、緊急入院もした。胆嚢は結局、手術で取った。
「今は、胃、脾臓、胆嚢、3つ臓器がないんです」
羽田野さんはこう話す。
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