40歳で乳がんを患った1人の医療者が、患者と医療者、そして日本と米国をつなぐ架け橋として歩き始める
医療者として、そして女性として――。がんを乗り越えた今、彼女は強くなった
あおき みほ
1965年高知県生まれ。高知女子大学看護学科卒業。看護師、保健師、衛生管理者。大学病院の病棟に看護師として3年間勤務、その後松下電器産業ほか企業の保健師、衛生管理者として約16年間勤務。We can fight(ウィメンズ・キャンサー・ファイター・サポート)主宰
乳がんサバイバーとして編訳書を出版
08年9月、ある1冊の本が出版された。リリー・ショックニー著『生きるための乳がん(原題NAVIGATING BREAST CANCER)』。
自らも*乳がんサバイバーである米国ジョンズ・ホプキンス大学病院併設乳がんセンター所長によって書かれたこの本は、検査や治療の受け方から、パートナーとの関係に至るまで、実に懇切丁寧かつ詳細に解説した案内書だ。患者にとって、必要な情報を提供しつつも、迷いのさなかにある患者の手をとって導くような、温かさが伝わってくる1冊である。
これを編訳したのが、乳がん患者団体『We Can Figft(ウィメンズ・キャンサー・ファイター・サポート)』を主宰する青木美保さん。青木さんは自らも40歳のときに乳がんを患ったサバイバー。この本の編訳に至った動機をこう語ってくれた。
「多少は乳がんの知識がある私でも、病理診断や治療法などの正しい情報を探し出すのは大変な作業でした。それだけに、この本が少しでも一般の患者さんの助けになればと願い、編訳をすることにしたのです」
看護師や保健師として豊富なキャリアを持つ青木さんは、乳がんとどう向き合い、どのように克服したのだろうか。
*乳がんサバイバー:乳がんとともに生き、克服し、乗り越えて生き続ける人、乳がんと診断されたすべての人
本当に信頼できる主治医を探して
88年に看護師として大学病院に就職。看護師を目指したのは、母が入院したとき、看護師の献身的な仕事ぶりに感動したのがきっかけだった。だが、配属された病棟での仕事は想像以上にタフだった。年端もいかない白血病患者たちが、看護の甲斐もなく亡くなっていく。心身ともに疲弊し、3年勤めた後、企業の保健師に転身した。
91年松下電器に入社。工場で有害物質を扱う社員などを対象に健康診断を行い、改善点を指摘するのが主な仕事だった。月の半分は出張で東日本全域を飛び回る日々。多忙だが充実した毎日を送っていた。
「仕事は絶対に辞めたくない」
そう言い続けてきた青木さんにも、専業主婦の経験がないわけではない。37歳のとき、不妊治療に専念するために退職したのだ。
「出張もストレスも多い仕事だったので、なかなか子どもができなかったんです。それで、仕事を辞めたら妊娠できるかもしれない、と」
だが、以前に手術した子宮筋腫が再発したこともあって、受精卵はなかなか着床してくれない。不妊治療を続けながら、03年証券会社の保健師として復職。左胸のしこりに気づいたのは、その2年後のことだった。
05年8月、都内の大学病院で超音波とマンモグラフィ検査を受診。石灰化の所見が認められたため、すぐに針生検を実施した。診断結果は「クラス5」。悪性だった。
「もう大ショックでした。患者さんたちはよく『頭が真っ白になる』と言いますが、医療職も一般の患者さんと同じようにショックを受けて、話が耳に入らなくなるんだなって」
1番つらかったのは、化学療法を受ければ、あれほど欲しかった子どももあきらめざるをえないことだった。呆然としながらも、かろうじて青木さんはこう言った。
「もう1度、別の病院で話を聞きたいんですが」
医師は快諾し、いくつか病院の候補を挙げ、宛名なしの紹介状を書いてくれた。インターネットや医学書などを手がかりに、青木さんは必死で病院を探した。
「最初の先生も、経験豊富でとても信頼できる先生だったと後で聞きました。でも、紹介状を見ると、腫瘍のサイズが『25ミリ大』と書いてあった。私には『1センチちょっと』なんて言っていたのに……。先生は気を遣ってくれたのかもしれませんが、私は正直に言ってほしかったんです」
「化学療法の経験はどれぐらいあるんですか」
2週間がかりの調査の末、青木さんが選んだのは東京・御茶ノ水にある日大駿河台病院だった。ここは、乳がんの内視鏡下手術で豊富な実績を誇る、全国でも数少ない医療機関の1つとして知られている。内視鏡下手術は侵襲性が少なく、入院日数を短縮化できるメリットがある。何よりも、乳房を大きく切り取る必要がないのは魅力だった。
青木さんは画像診断などの資料を携え、同院の医師である山形基夫さんのもとを訪ねた。
さっそく造影CT検査を受け、1週間後、夫と一緒に結果を聞きに行った。山形さんの説明によれば、青木さんの乳がんはあまりしこりを作らず、乳管の中を這うように広がっていくタイプだという。リンパ節に転移があることも判明した。山形さんは、日大駿河台病院のデータや米国で行われた大規模な臨床試験のデータを示しながら、1時間以上かけて質問のすべてに丁寧に答えてくれた。「まずは化学療法から行って、がんを小さくしていこう」という山形さん。
必要な情報をすべて開示し、患者が自ら判断する手助けをしてくれる。その真摯な態度に青木さんは感銘を受け、医師に対する信頼感を深めていった。
とはいうものの、青木さんはあくまでベストの治療を追求する姿勢を緩めなかった。
「失礼ですけど、先生は乳がんの化学療法の経験はどれぐらいあるんですか。化学療法をきちんとできる医師かどうか、何を根拠に判断すればいいんですか」
率直といえば率直過ぎる質問だが、自分の命がかかっている。妥協するわけにはいかなかった。すると山形さんは答えた。
「化学療法が適切にできる医師かどうかの判断基準は、『腫瘍学をきちんと修めているかどうか』が第1。腫瘍学は抗がん剤を正しく安全に、かつ最も効果的に使う方法を学ぶ学問。私は腫瘍学も修めていますし、もともとは消化器がんの化学療法を長く行ってきましたが、乳がんの化学療法も経験豊富ですから大丈夫です」
その言葉を聞いて、青木さんは、山形さんとともにがんと闘う決意を固めた。信頼する医師にめぐり会うために、徹頭徹尾、労を惜しまないということ。それは、患者と医師が心を1つにして治療にあたるための“通過儀礼”でもあった。
「髪を失うことが本当にいやだった」
05年9月末、5-FU(商品名)、ファルモルビシン、エンドキサンを併用するFEC療法をスタート。3週間ごとに4サイクル投与し、最初の2回のみ入院で治療を受けた。副作用の吐き気にはさほど苦しまなかったが、脱毛については覚悟を決める必要があった。告知の際、青木さんが最もショックだったのは「髪が抜ける」ことだったという。
しかし、「髪が短ければ短いほど、後でいい髪が生えてくる。頭の負担になるようなことはやめたほうがいいですよ」。そう医師に説得され、泣く泣く頭を3分刈りにした。
化学療法を始める前、カツラを買いに出かけたときのことだ。カツラを買うのに何から説明していいかわからず、必要以上に病気のことを話しすぎて、無関心な店員の素振りに傷ついてしまったこともある。
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