がん宣告にも慌てず騒がず「しゃあねぇや」人生の強さ 「人呼んで、ハードボイルドだど!」で一世を風靡したボードビリアン/俳優/書評家・内藤 陳さん
1940年、東京都生まれ。日本大学芸術学部中退。1962年、井波健・栗実とともにトリオ・ザ・パンチを結成、日劇ミュージックホールなどを舞台に大活躍。1981年より「月刊プレイボーイ」で書評「読まずに死ねるか!」を連載し、冒険小説、ハードボイルド小説の普及に貢献した。また同年に自ら日本冒険小説協会を設立、会長に就任して以来、毎年、日本冒険小説大賞を選んでいる。著書に『読まずに死ねるか!』シリーズ。主な出演映画に「麻雀放浪記」「玄海つれづれ節」「月はどっちに出ている」など。新宿ゴールデン街でバー「深夜+1(深夜プラスワン)」を経営している。
中高年の人なら、1960年代から1970年代にかけて、「ハードボイルドだど!」というギャグで一世を風靡したトリオ・ザ・パンチというお笑いグループをご存じだろうか。トリオのリーダーは、ニヒルな風貌に西部劇姿が似合う内藤陳さん。昨今は舞台をつとめる傍ら、日本冒険小説協会会長として活躍している。その内藤さんが昨年、直腸がんの手術を行い、人工肛門も体験した。がんも笑い飛ばすボードビリアンの「がん哲学」を聞いてみた。
直腸がんが見つかり「そうか! ついに!」
新宿・ゴールデン街にある自分の店の前で
1960年代初めに3人組のお笑いトリオ「トリオ・ザ・パンチ」を結成、「ハードボイルドだど!」などのギャグで一世を風靡し、1981年から自ら設立した日本冒険小説協会の会長を務めている内藤陳さんが、腹部に異常を感じるようになったのは、2006年の晩秋であった。内藤さんは、「しょっちゅうお腹が下痢っぽく、自宅からほど近い新宿紀伊國屋まで行く間に5回ほどトイレに入ることもあって、どうにも落ち着かなかった」と振り返る。
内藤さんの症状を心配し、井上外科の井上毅一さんを紹介してくれたのは、学生の頃から日本冒険小説協会に出入りしていた、作家の西村健さんだった。西村さんは鹿児島ラサール高校から東京大学に入り、卒業後一旦は労働省に入省したが退職し、フリーライターをしながら冒険小説家を目指した変わり種であった。九州の地方都市の医師会幹部を務めていた父親が、「息子が作家になるのを止めてください」と内藤さんに頼み込んだが、西村さんは父親の反対を押し切って冒険小説家への道を歩み、2005年には『劫火』で「日本冒険小説協会大賞」(国内部門)を受賞した、「今売り出し中の作家」(内藤さん)である。
西村さんに内藤さんが連れられて井上外科の門をくぐったのは、2007年の年明けだった。内藤さんによると、「井上先生はオレの尻に指を突っ込み、アッと嬉しそうな声を出した」という。診断の結果は西村さんを通して伝えられた。
「西村のやつ、深刻そうな顔をして、『会長、がんです』」と言ったかと思うと、おもむろに携帯パソコン出して原稿を書き始めたよ」と、直腸がんを宣告されたときの状況を思い出しながら、内藤さんは笑う。
井上さんは、「早くウチへ来て良かったよ。それほどひどくないから、早く手術したほうがいいよ」と言って、昭和大学病院を紹介してくれた。
内藤さんは直腸がんと聞かされて、ショックはほとんど感じなかった。なぜなら、「酒もたばこも好きなだけやり、自由気ままに生きてきた。がんがあっても何ら不思議ではない」と思っていたからである。だから、「そうか! ついに!」というのが偽らざる思いであった。
栄養失調と診断され手術は3週間延期に
品川区旗の台にある昭和大学病院へ行くと、主治医の角田医師が非常に多忙な人で、手術は月に1回しか行わないということがわかった。内藤さんは3月末に毎年恒例の日本冒険小説協会の全国大会を熱海で開催し、5月には浅草で舞台をやることが決まっていたから、できるだけ早く手術を受けたいと思った。
しかし、手術前の検査を行った角田医師は、沈痛な表情を浮かべて、「今の状態では手術できません」と告げた。「えっ!」と驚く内藤さんに、角田医師は穏やかな口調で言った。「現在の内藤さんは栄養失調状態で、手術に耐えるだけの体力がありません。2月の手術に間に合うよう、この3週間は食えるだけ食ってください」と。
従来、内藤さんは「せいぜい1日2食」、それも軽い食事で済ませていた。あまりの少食に、仲間の作家・北方謙三さんが、「(内藤陳)会長に食べさせる会の会長」を名乗り出るほどであった。その一方、タバコは「毎日ハイライトを3~4箱」喫うヘビースモーカーで、アルコールも「毎日ウイスキーのボトル1本」という酒豪であった。そういう生活だったから、もともと体力はなかったが、まさか栄養失調だとは思わなかった。
「食えるだけ食え」と言われても、「せいぜい1日2食」だった人が、急に1日3食摂ることは難しい。しかし、内藤さんは同じ2食でも、朝からハンバーグ、カツ丼と、「芸能界40年でこんなに食ったのは初めて」というほど食った。3月末の全国大会と、5月の舞台を何としてもやり遂げなければ、という一心からだった。
3週間の体力増強期間が過ぎた。体重は1~2キロしか増えなかったが、検査の結果は「手術はぎりぎりOK」だった。医師は手術後しばらくは人工肛門が必要なこと、その後、人工肛門をはずす手術をすること、放射線、抗がん剤治療も行うこと、便が自分の意志で切れるようになるまでは1年はかかることなどを十分に説明した上で、手術を行った。その説明も西村さんを経由して行われた。内藤さんは「西村から話を聞いて、すべてOKと言った。だから何が起きてもオレの責任」と割り切っていた。
人工肛門を付けたまま舞台で動き回ったが……
2007年3月31日に熱海「金城館」で開催された日本冒険小説協会第25回全国大会の写真を見ると、内藤さんは坊主頭で写っており、直腸がんの手術の後で、治療中であることがうかがえる。毎年大会は1泊2日で行われるが、会長の内藤さんは準備と後始末のために3泊4日の日程となる。手術から日も浅く、人工肛門を付けた状態で大会に臨んだ内藤さんは、「生まれて初めて、死ぬかと思った」と言う。
大会の最大のイベントは、前年1~12月に発行された国内外の冒険小説の中から、国内部門、外国部門の大賞を決定することだ。会員全員がそれぞれ持ち点6を持ち、自分が好きな作品に投票する。1冊に6点全部投じてもいいし、何冊かに振り分けて投票してもいい。その集計によって、ベストテン、大賞が決定される。その決定までの式次第が約3時間半かかり、そのあと懇親会となる。
前日からの準備やら、式次第の進行やら、タイトなスケジュールをこなしてきた内藤さんは、懇親会が終わってホッとしたのか、その場にガクッと崩れ落ちた。その年の大賞受賞者である作家の大沢在昌さんが、最終の新幹線で帰京の予定だったのをキャンセルし、翌朝まで付き添ってくれたのに救われた。 5月の浅草の舞台も人工肛門を付けたままで出演した。昔から、内藤さんの舞台は2丁拳銃をぶっ放すので有名で、内藤さんがかぶる野球帽にはシルバーの2丁拳銃が刺繍されているが、このときの舞台でも、内藤さんはガンベルトを腰に巻き、2丁拳銃をぶっ放しながら、舞台狭しと動き回った。
内藤さんは、「人工肛門が膨らんでくると、ガンベルトの収まり具合が悪くなり困ったよ。渡哲也さんのような大物なら、どっかと座ったまま演技をすればいいけれど、オレたちは舞台で動き回るから、やっぱ、人工肛門はダメだね」と、苦笑する。
手術後間もない治療中の身で、人工肛門を付けたまま舞台に立って動き回る、その芸人根性には頭が下がるが、内藤さんは「病院からの外出みたいなものだよ」と笑い飛ばす。
内藤さんは入院中、「色っぽくない器に盛られ、見るからにまずそうな病院の食事を食っていたのでは、病気が悪くなる」と思って、毎日のように昼と夜は外食した。術後、禁煙を言われていたが、「タバコをやめると死んじゃう」と思い、外食したときに2本、その帰りに病院の入口の喫茶店で3本、つまり1日2度の外食で合計10本ぐらいタバコを喫っていた。そういう外出と同じ感覚で、治療中でも舞台に立ったというのである。
身体は細いが、精神的なタフさが内藤さんにはある。それががんの暗さを突き抜ける明るさにつながっている。
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