どんなに追い込まれたときにも、ユーモア精神と心に余裕を
3つのがんを乗り越えつつある教育・経営コンサルタントが語る「がんとの付き合い方」

取材・文:江口敏
発行:2008年9月
更新:2019年7月

  

角行之さん

かど つらゆき
1964年、学習院大学理学部物理学科卒業、日立製作所入社(情報・通信グループ)。
2000年10月、日立製作所を定年退社(教育主管)。
専門はシステム・エンジニア教育コース設計と教育効果測定。
現在、情報処理国際機構(ITプロ、社会人教育担当)委員、情報文明文化研究所代表として「表現術」「交渉術」「コアコンピタンスとビジネスモデル」「マーケティング論」などを講演・講義している。
著書に『日本語のうまい人は英語もうまい』(講談社+α新書)、『はじめてのインストラクショナルデザイン』監訳(ピアソンエデュケーション)、『僕は元気なガン患者』(医療文化社)など

「前がん状態の胃潰瘍」で胃の3分の2を切除

写真:岩手県立大学で情報システム論を講義中の角さん
岩手県立大学で情報システム論を講義中の角さん

昭和57年、42歳、厄年だった。日立製作所のシステムエンジニアリング部門の管理職だった角行之さんは、誕生月の10月、例年どおり「壮年者健康診断」を受け、胃の検査のためバリウムをのんだ。透視写真を診た医師が言った。 「一見異常は認められませんが、強いて言えばこのポッチンが気にならなくもありません。念のため、湯島の病院(東京日立病院、以下日立病院)で内視鏡検査をしましょう」

角さんはそれまで全身全霊で仕事に没頭するとともに、酒もたばこも自由奔放にやってきた。また、古来日本人が受け継いできた「厄年」という考え方を尊重していた。だから、「今年は何かあるだろうなあ、何があってもおかしくないなあ」と気にかけていた。「内視鏡検査」と言われたとき、不吉な予感が走った。

最初の内視鏡検査では、「7ミリ程度の腫瘍らしきものはあるが……」と、主治医は首をひねった。角さんは冷静に、「その部分の組織を採って調べてください」と筆談で伝えた。2週間後、主治医から抗生物質をのむよう指示された。

その後、再度内視鏡検査を受けた。1週間後、至急病院に来るよう、連絡が入った。そのとき、「来るべきものが来た」と、角さんは胃がんを確信した。しかし、診断は「前がん状態の胃潰瘍」だった。主治医は角さんにこう告げた。

組織を調べたところ、異型上皮4だった。異型上皮というのは組織の崩れ方で、1が正常、5ががんだ。あなたは4だった。3や4は良性の潰瘍でも認められる。そこで抗生物質を投与して調べた。良性なら3以下になるはずだが、2回目も4のままだった。これは前がん状態の胃潰瘍。放置しておいたら、1年以内に100パーセントがんになる。早めに手術すれば、盲腸と同じですぐに治るよ」

盲腸と同じと言われたこともあり、角さんはほとんどショックを感じなかった。あとでわかったことだが、主治医がショックを与えないよう、病状の告げ方に配慮してくれていた。それから20年近く経って、同じ主治医から食道がんを告げられたとき、昔のカルテを見せてもらう機会があった。そこにははっきり「胃がん」と書かれていた。

それはともかく、角さんは周囲に、盲腸と同じ程度の手術で治る前がん状態の胃潰瘍であることを告知した。会社の上司は「すぐに入院して、切っちまえ! 早く治せ!」と檄を飛ばし、奥さんは「あらそう、すぐに切ったら。家のことは大丈夫!」と泰然自若としていた。

しかし、手術は彼にとっては予想以上に大きな手術となった。胃の3分の2を切除し、一部神経も切断された。半年ほどの間、空腹感・満腹感がなかった。空腹は虚脱感で知った。いわゆるダンピング症候群である。満腹は嘔吐感で知った。

「その後、2度のがん治療で外科的手術を避けたのは、最初の胃がんの手術で、術後の食生活でつらい思いをしたからです。食生活で不便を強いられると、社会生活が大きな制約を受けます。それでは、何のために手術をしたのか、本末転倒になりかねませんからね」と角さんは述懐する。

編集部注 この部分は角さんの言葉で、必ずしも正確ではありません。正しくは、細胞診でクラス分類(細胞の異型度)について述べたものと思われます。
クラス分類は5段階に分けられ、4、5が異型細胞があり、4ではがんの疑い、5ではがんと判定されます。

定年退職の最後の日に宣告された食道がん

胃がん手術後、半年ぐらいは食生活に苦労したものの、角さんは順調に回復し、再び仕事の虫となって、40歳代、50歳代をひた走った。いつしか、IT教育のトップランナーとなり、社内はもとより、各地に出掛けて講義や講演を行う立場になっていた。50歳代の半ばをすぎたころ、胸の奥に不快感を感じるようになり、狭心症を心配して、日立病院に検査入院した。しかし、狭心症は発見されなかった。

「胃がんの手術以降、大きな病気もせず、健康で仕事に励んでこられたことは、本当に幸せだったと思っていました。しかし、定年間近になって、何かできていてもおかしくない、という予知めいたものはありました」と角さんは言う。

平成12年、60歳になり、定年退職を前にして最後の健康診断を受けることになった。健診の医師は胃がんのときの主治医であった。主治医は「もう最後か。早いものだね」と言いながら診断した。「最後ですから、念入りに診てください」と角さんは頼んだ。

主治医は念入りに腹部から胸部のレントゲン画像を診断した。何も異常はないようであった。最後に、主治医がふっと画像を上にふったとき、食道にポッチンが見つかった。主治医は「君から念入りに診てくれと言われなかったら、見逃していたかもしれないよ」と正直に言い、日立病院で精密検査をするよう指示した。

定年退職する最後の日の朝1番に、角さんは日立病院に検査結果を聞きに行った。担当の女医さんから、「食道がんです。がんが筋層に少し入っています。早期がんではありません」と告げられた。角さんは一瞬、「また外科手術か」と暗澹たる気持ちになった。手術となると、もう胃は3分の1しか残っていないため、最悪の場合、腸とのどをつなぐことにもなりかねない。声帯を傷つける可能性もある。講義・講演を仕事にしている角さんとしては、手術は避けたかった。

しかし、その晩、知り合いの女性経営者の紹介で会食した気功師が、角さんの食道あたりを見ながら、「その程度なら放射線と抗がん剤で治療できるはずですよ」とアドバイスしてくれて、慶應大学病院の名前を挙げた。角さんはそこで放射線と抗がん剤治療を受ける覚悟を決め、日立病院で紹介状を書いてもらって慶應大学病院の門をくぐった。

放射線と抗がん剤で驚異の食道がん克服

写真:食道がん治療で抗がん剤(5-FU、ランダ)を鎖骨下静脈に点滴
食道がん治療で抗がん剤(5-FU、ランダ)を鎖骨下静脈に点滴

慶應大学病院の担当医師が、「放射線と抗がん剤を組み合わせる治療は、まだ4年ほどしか経っていませんが、95パーセント成功しています」と自信に満ちた口調で言った。角さんはすぐにOKを出した。

「私はもともと好奇心が旺盛ですし、専攻は物理でしたから、放射線に対する偏見はなく、原子力発電も安全だと考えています。むしろ放射線治療と聞いて、内心燃えました」と角さんは言う。平成12(2000)年11月から13(2001)年1月にかけて、慶應大学病院に入院し、放射線治療と抗がん剤治療を受けた。角さんは今でこそ、「世紀をまたいでの入院でした」と笑い飛ばすが、決して楽な治療ではなかった。放射線は1日2グレイずつ15日間のコースを2クール、合計60グレイ照射された。抗がん剤は放射線照射が始まった最初の3日間、集中的に投与された。「私は体力は十分あったので、ウイスキーで言えば、水割りコースではなく、ストレートコースを、じかに投与されました」と言う。

写真:印は放射線照射の位置決めのため
印は放射線照射の位置決めのため

治療が始まったとたん、がんの数値は急激に落ちた。主治医は、「高用量の抗がん剤を集中的に投与したのが効いたのでしょう」と言った。抗がん剤の副作用を心配していたが、初日は別段、何ということもなかった。「あらなんともなや昨日は過ぎて河豚と汁」という松尾芭蕉の句をもじって、「あらなんともなや昨日は過ぎて抗がん剤」という川柳を作ったほどだった。

しかし、油断大敵だった。副作用は2日目からやって来た。「2日酔いのひどいやつが3日間続き、七転八倒どころの苦しみではありませんでした。この間、水とサプリメントをのんで、ひたすら体力維持に努め、嵐が過ぎるのを待ちました」と角さんは振り返る。医師や看護師さんには、「3日間で収まるのはラッキーだ」と言われた。

このとき、年末にもう1度抗がん剤を投与した。「2度目のほうがつらい。覚悟しておいたほうがいい」と言われていたが、嵐は来なかった。年越しそばを食べ、紅白歌合戦もテレビ観戦した。角さんは当時を思い出しながら、「とてもハッピーな気分で21世紀を迎えました」と笑う。

放射線と抗がん剤を組み合わせた治療で、食道がんは消えた。退院後1カ月で、元どおりの生活ができるようになり、医師からも「まれなケースだ」と驚嘆された。

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