決してあきらめないで、
自分にあった治療法を捜してほしいと笑顔で訴えるその若々しい姿
30代半ばで肺腺がん、10年間で8度の治療を受けた主婦の壮絶な闘病人生
まつい かおる
1961年3月2日生まれ。
1998年4月国立がん研究センター病院で肺腺がん右上葉切除手術、
2002年3月同病院でシスプラチン・ビノレルビン、放射線治療。
2004年3月同病院で放射線治療。
2006年3月都立駒込病院で定位放射線治療、6月国立がん研究センター病院でイレッサ投与、8月同病院でシスプラチン・ゲムシタビン投与、12月名古屋共立病院で頸部定位放射線治療とTS-1投与を受ける。
2008年2月、都立駒込病院でシスプラチン動注治療2回、放射線治療を受け、現在に至る
健康診断で「要再検査」しかしがんは発見されず
サイパンで会社の同僚とスキューバダイビングを楽しむ
27歳当時の松井さん(左から2人目)
6月初めの平日の午後、松井薫さんを池袋駅からほど近い自宅マンションに訪ねた。ピンポーン、と玄関のブザーを押すと、しばらくしてドアが開かれた。そこに現れたのは、この10年間、肺腺がんのために、手術、抗がん剤、放射線治療を合計8回も繰り返し、今なお肺がんと闘っている40代後半の女性とは思えない、凛とした若々しい女性だった。
松井さんの肺腺がんとの闘いが始まったのは、11年前のことだ。当時はご主人の勤務の関係で奈良市に住んでいた。1997年6月、当時勤めていた会社で健康診断が行われた。会社に横づけした健診バスで、レントゲンなどを撮ってもらう、あの健診である。健康に自信があった30代半ば過ぎの松井さんは、送られてきた健診結果の封も切らず、そのままに放置しておいた。
しばらく経ったある日、義妹から電話がかかってきて、たまたま健康診断の話になった。松井さんは健診結果が送られてきていたことを思い出し、封を切った。
松井さんの目に、「肺上部に異常あり。要再検査」という文字が飛び込んできた。しかし、松井さんはそれほど気にすることもなく、「ちょっと調べてもらおう」と、ふだん子どもがかかっている近所の小児科内科を訪ね、改めてレントゲンを撮ってもらった。
「何もないよ。見てごらん」と医師が言った。松井さんもレントゲン写真をのぞいた。異常は何も見えなかった。「しいて言えば、これかなぁ」と医師が指さす部分を、目をこらして見ると、そこにぼやーっと影のようなものが映っていた。医師は近くのS総合病院で精密検査を受けるよう、紹介状を書いてくれた。
S総合病院では5日間入院し、内視鏡検査、ガリウムシンチを行った。担当医師は、「内視鏡にもガリウムにも出ていません。大丈夫でしょう」と検査結果を告げた。松井さんはひとまずホッと胸をなでおろした。健診バスで健診を受けてから半年近くが経ち、季節は晩秋から冬に移ろうとしていた。
「良性でも大きくなるものがあり、肺機能を邪魔することがありますから、3カ月後にもう1度検査しましょう」という担当医師の言葉を聞きながら病院を後にした松井さんは、いつもと同じ年末・年始を家族とともに迎えた。
3カ月で影が3倍に肺腺がんと診断
清水寺で長男(4歳)と長女(2歳)と(33歳当時)
身体には何の異変もなかった。松井さんは気楽な気持ちで、検査のために再びS総合病院を訪れた。1998年2月のことだった。レントゲンを撮ると、担当医師の態度が急変した。「影が3倍になっています。良性だったら、こんなに早く大きくなりません」と、医師は口走った。「悪性ですか? がんですか?」と尋ねると、医師は黙ってしまった。
松井さんが、「東京の病院へ行きます!」と言うと、医師は「紹介状を書きますから、1日だけ待ってください」と、申し訳なさそうに言った。
「頭の中が真っ白になりました。帰りの車の中から主人に携帯電話をかけましたが、『がんらしい』という自分の言葉にショックを受け、涙があふれて止まりませんでした」と、松井さんは振り返る。
途中で書店に立ち寄って肺がん関係の本を買い、専門医のいるがん専門病院を探したところ、「国立がん研究センター」という病院名が松井さんの頭を占領した。ご主人がツテを頼ってK大学病院のルートも確保してくれたが、松井さんは国立がん研究センターに行くと決めていた。
翌日、紹介状を持って国立がん研究センターを訪ねると、内視鏡検査の大家である医師の診断を受けることになった。当初、検査日は2週間後と言われていた。しかし、医師は急に「松井さん、来週来れる?」と訊いた。「大丈夫です」と答えた松井さんだったが、急がなければならないほど悪いのか、と不安がよぎった。
翌週、検査を行い、ご主人と2人で結果を聞きにいった。案の定だった。「残念ながら、がんです。2センチの小さながんですから、大丈夫です。心配なのはリンパ節転移ですが、とりあえず入院してから調べましょう」と、医師は告げた。1a期の肺腺がんだった。
国立がん研究センターに入院した。最初は3人部屋だった。同室の2人はいずれも高齢の女性だった。孫のような年齢での松井さんが入ってきて、2人は最初、「おばあちゃんを見舞いに来た孫じゃないの?」と思ったらしい。30歳代半ば過ぎの女性が肺腺がんで入院すること自体、珍しかったのである。
「これはもう治りません覚悟してください」
最初の手術をする10日前 自宅で長女(6歳)と
入院後、10日間ほど、さまざまな検査を行い、手術を受けることになった。手術の前夜、担当医師が病床にきて穏やかな表情で言った。
「松井さん、明日手術します。まず脇を10センチほど切って、両側の肺をよく見てみます。何も異常がなければ手術します。2~3時間の手術になります。麻酔から覚めて、傷が10センチしかなかったら、手術ができなかったということで、大きな手術跡があったら、手術が成功したということです」
1998年4月、松井さんは肺腺がんの右上葉切除手術を受けた。手術中、麻酔が失敗して髄液が下がるというアクシデントがあり、術後、ひどい頭痛に悩まされたが、がんの切除は成功した。リンパ節への転移も認められず、抗がん剤は必要なかった。術後2週間で退院し、以後は1カ月後に検査を受けたが、正常だった。
その後、3カ月ごとに血液検査を受けた。数値は正常だった。術後2年間はがんは鳴りを静めていたのである。
術後3年目に入った頃から、血液検査の数値が上がり始めた。
しかし、2001年6月から11月まで、ほぼ半年にわたって検査をしても、どこにもがんは見つからなかった。医師は「数値を気にせず、しばらくそのままに置いておきましょう」という判断を下した。
その検査のため、奈良から東京に通わねばならなかった。「東京の実家に泊まったこともありましたが、子どもがまだ小さかったので、ほとんどが日帰り状態でした。朝6時に奈良の家を出て、新幹線で東京に出て、1~2時間待って検査してもらい、また新幹線で帰っていました。子どもが小学校に行っている間に、東京に行って帰ってくるという感じでした。肉体的にも精神的にも大変でした」と、松井さんは言う。
ちょうどその頃、松井さんは長男の小学校卒業・中学校入学を翌年に控え、東京に戻っている。それはまさに絶妙なタイミングであった。
2002年2月、松井さんは気管支喘息のような症状に見舞われながら、国立がん研究センターに検査を受けにいった。松井さんが「先生、最近、気管支喘息のような症状が出るんですが……」と言うと、医師は「エッ!」と驚きの声をあげ、顔色を変えた。すぐに精密検査を行うと、気管の2カ所にがんが見つかった。「これはもうほぼ治りません。覚悟だけはしておいてください」と医師は告げた。
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