がん闘病中の自分を自分で撮った映像作家が学び直した「病は気から」
酒もタバコも「お気に召すまま」、映像作家の仰天がん哲学
かわなか のぶひろ
1941年、東京都生まれ。
1969年「ジャパン・フィルムメーカーズ・コーポラティブ」設立に参加、上映活動を行う。
1971年「アンダーグラウンド・センター」設立。
1972年から寺山修司の「天井桟敷」の地下劇場でシネマテークを開設し、上映活動を続けた。
1977年東京・四谷に上映の拠点「イメージフォーラム」(現在は渋谷)を設け、同時に映像作家を育成する研究機関「イメージフォーラム付属研究所」を併設。
1977年に東京造形大学に非常勤講師として招聘、2006年まで同大学教授を務めた
胃カメラをのみながらビデオで胃の画像を撮影
胃カメラを鼻から入れられた映像を見ながら話すかわなかさん
切除された胃の映像
大きなテレビの画面にDVDの映像が映し出される。映像作家が自ら自分の体内を撮った、おそらく世界で初めての映像である。
映像作家で元東京造形大学教授のかわなかのぶひろさんは、1979年から、同じく映像作家・多摩美術大学教授の萩原朔美さんとの共作で、『映像書簡』という作品を何本も撮ってきた。2人がそれぞれの日常生活を映像に切り取り、往復書簡風にまとめて作品化してきたのである。
2005年に出されたその10作目は、壮絶な作品となった。萩原さんの映像には、萩原朔太郎の娘で作家の母・萩原葉子さんが、日常生活の中で物事を忘れないために、その都度大きな字で書きしるした膨大なメモ類が映っている。葉子さんは登場しないが、その膨大なメモの映像だけで、萩原葉子さんの晩年の悲痛さが伝わってくる。
かわなかさんの映像には、入院して胃がんの手術を受ける前後のかわなかさんが映し出されている。検査を受けるために鼻から管を入れられるかわなかさん、いろいろ説明する若い女性看護師、胃カメラによって映し出されたかわなかさんの胃の映像等々。
もちろんカメラを回しているのは、かわなかさん自身である。胃カメラの映像は、胃カメラをのんでベッドに横たわっているかわなかさん自身が、ビデオカメラを手に映像を撮っているので、90度傾いて映っている。
また、胃の画像のアップを映しながら、「ここに丸いものがありますね。胃とは別のものがある。副腎かもしれない……」と説明する医師の声が入る映像もある。たしかに胃カメラで胃の内部を撮られながら、その画像を自分自身で撮った映像作家は、世界広し、といえども、かわなかさんぐらいかもしれない。
圧巻は、医師の「お疲れさまでした。手術は順調に終わりました」という言葉に続いて映し出される、切除された胃の映像である。金属製のトレイにどっかと乗せられているかわなかさんの胃は、まさに動物の臓物そのもので生々しい。かわなかさんはその映像を見ながら、「外側はくたびれてるけど内臓はキレイでしょ」と、どこか嬉しそう。
自然界にはウーパールーパーのように幼児の姿のまま成長する幼形成熟の動物がいることを説明しながら、「老人で生まれて赤ちゃんで死ねたら、歳をとるごとに若返れたら、どんなにいいだろう。かわなかさん、どう思いますか」と言う萩原さんのモノローグがかぶせられたり、「生が終われば、死も終わる」というスーパー(字幕)が入ったり、人間の生と死に関する奥深い考察も加えられている。
上映時間が40分近い『映像書簡10』は、かわなかさんの胃がんとの壮絶な闘いの一断面を、静かなピアノの伴奏を背景に、静謐に描いている。
がんの疑いを指摘されたが癌研では「胃潰瘍」と診断
東京造形大学かわなかゼミの学生たちと
かわなかさんが胃がんの手術をしたのは、2005年2月14日のことだ。しかし、実は、近所の病院でがんの疑いを指摘されたのは、その2年前のことであった。
東京造形大学の教授をしていたかわなかさんは、以前から、新しい学生を迎え、新作を制作しなければならない入学式近くになると、胃が痛くなる症状が出ていた。桜の季節が終わり、新緑の季節になるとそれも収まるために、クスリものまないで放置してきた。
2002年6月、かわなかさんの友人で主治医だった庭瀬康二さんが、突然胃がんで亡くなった。庭瀬さんは『ガン病棟のカルテ』(新潮社刊)という著書もある有名医師だった。ある日「高齢者医療をやる」といって東京を離れ、千葉県流山市に「庭瀬クリニック」という高齢者医療の病院を開いていた。「あの志の高い庭瀬さんが胃がんに倒れたことは、ボクにとってもショックでした」と、かわなかさんは振り返る。
翌2003年春、入学式シーズンを控えて、念のために地元の病院に検査を受けに行った。胃カメラをのんだ。小太りの医師は、画像を診断し、首をかしげながら、「もう1回、検査します」と言った。後日、もう1回、胃カメラをのんだ。医師は、こんどは舌打ちをした。「これは信用できんな」、かわなかさんは思った。
医師は、「胃がんの疑いがある。もういちど胃カメラで検査しましょう」と言った。かわなかさんは検査結果を聞かず、大塚の癌研病院に行って検査を受けた。癌研の診断は「胃潰瘍」。「胃がんをとるか、胃潰瘍をとるか。ぼくは胃潰瘍をとりました」と言うかわなかさん、その後2年、そのまま放置した。
少しも動揺しないでがんを平然と受け入れた
2005年新春、やはり胃が気になったかわなかさんは、再び検査を受ける気になった。どの病院へ行くか迷っていたかわなかさんに対して、奥さんが「都立青山病院がいいわよ」と言った。自分が主宰している「イメージフォーラム」の事務所から近すぎるのがイヤだったが、奥さんの推薦でもあり、「しようがない」と思って、青山病院の門をくぐった。
胃カメラをのんで検査をすると、案の定、「悪性のがんです。5段階評価の4に達しています」と言われ、手術を勧められた。このとき抗がん剤と放射線治療も選択できると言われたが、「歯のがんの放射線治療を行った小説家の友人から、食べものが灰を噛んでいるような味になると、副作用のつらさを聞いていたので、手術を選択しました」と言う。
主治医の説明が明確で、信頼に足ると感じたかわなかさんは、手術を受けることを即決し、「入学式に間に合うよう、2月末には退院できるようにしてください」と頼み込んだ。
悪性のがんと診断され、手術をすることになっても、少しも動揺しなかった。なぜなら、「ボクはヘビースモーカーだし、大酒、大食いを繰り返してきたから、がんぐらいあたりまえだと思っていました。それに、がんだと言われて2年間放ってきたわけだし……」。言わば平然と胃がんを受け入れたのであった。
2005年1月31日に入院し、2月14日に手術、予定通り2月末に退院した。その間の闘病生活は、手術の場面を除いて、『映像書簡10』に淡々と描かれている。「入院中は正しい患者を演じよう」と決めたから、酒はやめ、外出も我慢した。
ただ、入院前に1日3箱喫っていたタバコだけは止められなかった。かわなかさんは5階の病室からエレベーターで1階の喫煙場所に降りては、タバコを喫った。それは思いのほか面倒できつい仕事であったから、さすがに喫煙量は1日1箱に減った。また、「タバコを喫って痰が肺に詰まるようなことがあると大変だ」と言われ、術前はしばらく禁煙に踏み切った。
手術は4時間の予定が8時間半もかかった。「胃をわずかでも残すために患部を断端検査にまわし、がんがないと確認。副腎のポリープもついでに取っておきましょう」ということで、手術時間が長引いたのだった。かわなかさんは麻酔で眠っていた手術中の時間を、「人生の中で失われた8時間半です」と言って微笑む。
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