「人の心が和む作品」に情熱を傾ける「石創画」の創始者
生かされた命。人に役立つ作品を創るのが生きがい
えだ たかひろ
画家。
1942年大阪市生まれ。
高卒後グラフィックデザインとデッサンを学ぶ。
デザイナーとして活躍後、1978年、石を素材に描く「石創画」の研究制作を開始。
1979年から現在まで、国内、欧州、カナダで開かれた個展は40回以上を数え、美術年鑑、日本紳士録に「石創画創始者」として記載される。
胃がんの体験を経て「日ごろ美術鑑賞の機会がない人たちが親しめるように」と、2007年、「石創画タッチ展」というユニークな絵画展を開催
さわって、鑑賞する絵画展
2007年8~9月に行われた第1回石創画タッチ展
太平洋を渡るカルガモの作品にタッチ。
指先の感覚で楽しむ
胃がんの克服を機に、これまでにない絵画展を開催した画家がいる。大阪府に住む江田挙寛さんだ。 2007年8月から9月にかけて開催された絵画展「石創画タッチ展」は、“作品にふれて楽しむ”というコンセプト。普通、絵画展は作品にふれるのは厳禁だ。それを逆手にとってふれるようにしたところがこの絵画展のミソである。
「まず、視覚障害のある人、子どもさんとその親御さん。小さな子どもがいるとなかなか鑑賞に出かけていくということもできないからね。そういう人たちに芸術鑑賞の機会をと願って企画しました」と江田さんは言う。
会場のギャラリーの中央に据えられた長机の上には、太平洋を渡るカルガモの親子の絵が置かれている。「石創画」という技法によって描かれた、表面に凹凸のついた絵画である。これをさわれるように「展示」しているのだ。
「なにかがズラズラと……何かな? あ、カモだね!」
視覚障害者の方も、晴眼者も、子どもも指先で「鑑賞」している。カセットデッキを再生したら、絵の解説を聞くことができるし、点字での説明もある。また、ガイドスタッフがとなりについてくれる。 愛らしい小鳥や花など親しみやすい作品ばかりではなく、能や寺社など重厚なものも並ぶ。
絵を見ている人に声をかけている、黒いシャツ、黒いスラックス姿の痩身の紳士が作者の江田挙寛さんである。瞬く間にそこは談笑の場になった。
「見に来る人を見ていたらおもしろいよ。能の絵を険しい表情で見ていた初老の男性が、雀の絵を目にしたとたん、にっこりと微笑む。その直後に見られたかな? って気になったのかきょろきょろしはったり(笑)。かわいいなと思ってもらえたら、雀の絵は大成功です」
作者の意図どおり、絵画展には親子連れや近隣の府県に住む視覚障害者たちが訪れ、「目で見るだけでなく、手でタッチできるので、ツルツル、少しザラザラ……視覚+触覚で2倍楽しめました」「作品展で困るのは子どもが飽きてしまうこと。いろいろな感覚を使って子どもも楽しめました」と感想文が寄せられた。
タッチ展の手ごたえに満足そうな笑顔の江田さんは、「がんになって創作活動が変わったというより、もともとあった思いが具体的になったという感じですね」と語る。
突然変異? で生まれた画家
石創画で用いる絵の具などを展示しているコーナー
江田さんは戦争が局面をむかえた1942年、大阪市で生まれた。空襲を受けたため、3歳のときに郊外の茨木市に移り住んだ。
子どものころから、絵が上手なことは誰もが認めるところで、同窓会などに顔をだすと「江田くんの絵は抜群に上手かった」と先生やクラスメートが懐かしむほどの腕前。
芸術一家で絵の英才教育を受けたというわけではない。「ぼくだけ突然変異(笑)」なのだという。
「絵は得意やったけど、実は中学と高校ではテニス部のキャプテンでね。チームをぐいぐい引っ張っていくんではなく、自分から草むしりをすることで部員がついてくる、という優しいキャプテンやってん(笑)」
絵が上手い、テニス部の心優しいキャプテンが芸術の道に進もうと決めたのは、定時制高校4年生のとき。卒業後、1年間専門学校でグラフィックデザインを学び、その後3年間は京都関西美術院でデッサンを習得した。
生来の才能と本格的に絵を学んだことで、学内での成績は優秀だった。
「課題の絵は文句なく点数がもらえたけど、出席日数が足りない。学校に行く時間に大阪の街中で風景をデッサンしてたからなぁ(笑)。卒業できないと思われてたわ」
25歳のとき、友人とデザイン事務所を立ち上げた。スタッフ5人を抱え、グラフィックデザイナーとして実績を積んだ。事務所は閉鎖したが、画家としての江田さんの名は「石創画」という独自の技法の作品群によって知られるようになっていく。
石との出会い
アトリエで制作中の江田さん。
石を磨く作業は根気と体力勝負
36歳の夏、江田さんは知人宅の玄関先で赤い盆石を見つけた。埃をかぶったその盆石が気になって、ぬらした指で擦ってみると、指についた鮮やかな美しい赤色に目が釘付けになった。
「この瞬間に、石で自由に絵を描きたいと思って……独創性を追い求めたデザイナー出身の生き方からくる発想だったなぁ」
そして庭にあった緑色の石を貰って知人宅を辞した。何軒もの石屋を尋ね回って、その緑の石が「古代緑」という名の大理石だと判明したとき、「石で描きたいという思いがはちきれそうになったね」
それからというもの、石で描く技法の研究制作に没頭していった。大理石や御影石等、天然石を砕いて粒にしたものをセメントや顔料と混ぜあわせる。これが絵の具になる。それを石版のように塗りこみ、固まってから磨くと表面に絵が現れる。試行錯誤の末、誕生した新しい技法を「石創画」と名づけた。
電話で胃がん告知
1979年に初の石創画展を開いた。以来、毎年のように個展を開き、精力的に創作を続けていた2005年8月、江田さんのからだに突然の異変が起こる。
自宅のアトリエで作業をして昼食をとった後、真っ黒い便が出た。続いて吐血。
「胃潰瘍だ」
不気味に真っ黒な血を見た江田さんはそう思ったという。
実は1週間くらい前から胃にちくちくと痛みが走ることに気づいていたものの、それほど深刻には受け止めていなかった。
さすがに「明日、病院に行かなくちゃ」と家人に話していたその夜の11時を過ぎた頃、またもや大量の血を吐いた。今度は鮮血で、さらにもう1回。救急車で病院に搬送された。
運ばれた病院では、内視鏡による処置を兼ねて検査が行われた。8日間の入院だった。
退院後4、5日して、検査の結果が出たと病院から電話が入る。この電話で、江田さんは思いもよらない担当医の言葉を聞く。
「先生は、『江田さん、どうやら胃がんのようです。説明するので病院に来てください』っておっしゃる。もちろん、驚きました。え? なんで? 自分のところはがん家系ではないのにって、思いました」
そんな衝撃的な電話を受け、「あと半年とか1年の命です、なんて言われたらどうしようかと……」と動揺した江田さんも、病院で説明を受ける日が近づくにつれ「しかたないのかなぁ」という心境になる。 「がんが見つかったからといって、今日や明日死ぬというわけではないだろうから、仕事を片づけたり、いろいろ準備する時間はあるだろうと、覚悟を決めて、という感じでした」
病状と今後の治療について、江田さんは奥さんとともに、担当の内科医から説明を受けた。
「先生はフィルムを指しながら、ここの影ががんのようですが、小さなものですと説明してくれました。初期の胃がんなので手術で根治できる、外科で手術の日を決めてくださいということでした。初期で治るということだから、電話で『がんです』なんて告げられたのかな、と思います」
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