がんと「闘う」のではなく、「共に生きる」が生存力の秘訣
くり返し襲って来る乳がん転移の恐怖を乗り越えて
あらかね さちこ
昭和63年、乳がんで左乳房摘出手術。
平成2年、肝転移。
平成12年、脳下垂体へ転移。
平成14年、肝転移再発。化学療法による副作用で心停止。ペースメーカー装着。
平成18年3月、肝臓に3度目、平成19年2月に4度目の再発。
呉共済病院在宅医療指導管理室師長を最後に、6月に退職
半分が病後だった36年の看護師生活
荒金幸子さんは雨のなかわざわざ傘を差し、自宅の玄関先で出迎えてくれた。とても4度の肝転移体験者には見えない。肩にまとった水色のショールの似合う清楚な女性だ。
「3年ぐらい前から退職を考えていましたが、看護部長の転勤などいろんな事情が重なって延びのびになっていたんです。でも、36年間仕事ができたのは、本当に病院の理解があったおかげなんです」
職場転換や仲間の配慮がなければ、看護師というハードな仕事はつづかなかったに違いない。だが、とくに心臓にペースメーカーを入れた5年前からは彼女の苦労は想像を絶する。息切れも頻繁にしていたようだが、「元気なころと病後が同じ18年と、本当に半分半分なんですよ」
と、人ごとのように笑って言う。
そんな荒金さんのパワーと明るさが、周囲に与えた影響ははかり知れない。がんを抱えて元気に働きながら、患者さんたちの相談相手になってきた。
「私は、ずっと治療をしている患者だから受け入れてもらえたんだと思うんです。誰しも自分のことをわかってほしいと思って生きていることに変わりありませんから」
そして今年6月、荒金さんは看護師を「卒業」した。
乳がん手術2年半後の肝転移
荒金さんに最初の乳がんが見つかったのは、1987年の暮れのこと。病期は2期で、今なら乳房温存療法の適応だが、当時は脇の下のリンパ節まで切除する全摘手術で、37歳の荒金さんはショックにうちのめされた。
「手術前にお風呂に入って自分の体を見たとき、やっぱり涙がポロポロとこぼれました」
手術は成功し、病理組織検査でもリンパ節転移はなかった。補助療法の放射線治療を1カ月あまりおこない、3カ月後には職場に復帰。子育てと仕事の両立に多忙な毎日を過ごしていた90年6月、職場の健康診断に引っかかる。
肝機能検査の結果、GOTとGPTが正常値の40を大きく上まわる4ケタの数字に跳ね上がっていた。
乳がん手術から約2年半。肝転移だった。
肝臓全体が真っ白に見えるほどのCT検査の画像や、主治医の「夏までもつかどうか……」という予後は、本人には伏せられた。
ただ、看護師の荒金さんに事の重大さは一目瞭然。そのときの恐怖は、発症時を遙かに超え、涙すら出なかったという。
「涙がでる恐怖以上のもの、全身が震えるような、すごく死っていうものが目の前に押し迫ってきたんです。心は散り散りっていう感じでした」
2人の息子は中学生でもっとも多感な時期。いま彼らを残して逝くわけには行かないし、自分の人生もまだ全うしていない。
「いくら過酷な数値でも、がんで死ぬわけには行かないという気持ちが湧いてきました。なにがなんでも、地に這ってでも生きなきゃって思ったんです」
当時の呉共済病院の院長も「荒金を死なすわけには行かない」と、アメリカでの肝臓移植の可能性まで探ってくれた。渡米の可能性を伝え聞いた義母は、借金の相談のために銀行へ走った。少し後になるが、夫は仕事を辞め、妻のそばにいたいと義母に伝えた。周囲のみんなが荒金さんの命を救うために必死だった。
重症肺炎でICUに50日
さまざまな情報収集の結果、治療は岡山大学医学部付属病院で独自に行われていた免疫療法(「OH-1」と呼ばれる治療)と化学療法を併用する治療法を選んだ。
岡大病院の検査では、乳がんの診断に重視されるCEAという腫瘍マーカーも、639ナノグラム(正常値は5ナノグラム以下)。主治医になった猶本良夫さん(現消化器・腫瘍外科学准教授)が家族に伝えた予後も「放置すれば2~3カ月」だった。
荒金さんはこう振り返る。
「余命告知はされなくて良かったと思います。もし知らされていたら、今のわたしは無いかもしれません」
免疫療法に加え、抗がん剤は5-FU(一般名フルオロウラシル)とエンドキサン(一般名シクロホスファミド)が使われた。
口から食べられないため、カテーテルで中心静脈栄養を注入。高熱を発し、ガタガタ震える凄まじい悪寒に襲われ、髪の毛はバサッとぬけ落ちた。そうした副作用が極限まで達すると、主治医も驚くほど腫瘍マーカーが下がりはじめる。
が、季節が夏を過ぎ、すでに晩秋となった10月29日、突然の呼吸困難で意識が混濁。感染による重症肺炎で、ICU(集中治療室)に運び込まれた。
「気がついたら、いわゆるスパゲティー状態。モニターがついて、静脈、動脈、お腹、膀胱、気管にも管が入り、声も出せませんでした」
意識はもうろうとし、常時一定の照明がついているICUでは昼夜の区別もつかない。そんななか、やさしい声だけが耳に届いた。忘れられないのが、主治医の猶本さんの言葉だ。
「いい日が来るから。いい日が来るから」
現場の心ある医師は、「がんばれ」ではないことを知っている。再三再四、“希望”を与えつづけてくれた。
「医師はとかく治療ばかりに目を向けがちですが、こうした一言がどれだけ患者に元気を与えてくれるかということを患者になってはじめて学びました」
死線をさまよった末、次第に意識も回復。容態を見におとずれた当時の教授が「いろんな体験をこれからの看護に生かしてください」と言った言葉に荒金さんは我に返った。
「このままだと、看護をしたことにならない。もう1度、1年でもいいから白衣を着させてくださいって祈りました。真に患者さんが求めている看護を実践したい、と思ったんです」
入室から50日、退室が叶った。
主治医の猶本さんは「奇跡」と表現したが、荒金さんはそうは思っていない。
「チューブにつながれて動けないとき、自分自身に存在感を感じたんです。みなさんが私の存在を認めてくれたからこそ、気力が生まれ、免疫力も高まったんです。奇跡じゃない、みなさんのおかげだと私は思うんです」
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