お願いだから1日も早く、ここで手を挙げている私を見つけて 歌手・ボイストレーナー 横内美知代さん
がんを抱えた母から、まだ幼いわが子へのメッセージ
ドラマ『永遠へ』は大きな反響を呼んだ
よこうち みちよ
1961年東京生まれ。
10代の頃から歌手として活躍し、東京ディズニーランドのシンガーダンサーをはじめ、『アニー』等ミュージカルの舞台も務めた。
34歳で乳がんを発症、4年後、妊娠中に再発。
シングルマザーとして再発と闘いながら息子・永遠君を育て、闘病しながら子育てする親子への支援要請活動を続けている。
著書に『永遠へ ガンを抱えた母から、まだ幼い我が子への手紙』(ソニー・マガジンズ)。
ドラマ『永遠へ』に大反響 8000件以上のアクセス
2007年1月26日夜、フジテレビ系列「金曜プレステージ」で、実話にもとづくドラマ『永遠へ』が放映された。
片平なぎさ演じるミュージカル歌手・美知代は、ある日突然、胸部の痛みに襲われる。乳がんと診断され、右乳房を摘出。3年後、友人の紹介で知り合った男性と婚約したが、結婚式直前に彼は失踪してしまう。すでに妊娠していた美知代は、シングルマザーとして子供を育てることを決意。再発がんと闘いながら生きる、母子2人の人生がスタートした――。
このドラマの原作となったのは、横内美知代さんの自伝『永遠へ ガンを抱えた母から、まだ幼い我が子への手紙』。美知代さんは闘病のかたわらライブ活動やブログなどを通じて、闘病しながら子育てする親子への支援要請活動を続けている。ドラマ『永遠へ』は大きな反響を呼び、番組終了直後には美知代さんのホームページに8000件以上のアクセスがあり、たくさんの手紙やメールが寄せられた。とくに感動したのは、「支援要請に対する署名用紙が続々と寄せられたこと」、と美知代さんは語る。
「ドラマを見て『感動しました』『泣きました』というだけで終わるのではなく、私が一番言いたかったことを理解してくれた人たちがいる。そのことが一番うれしかったですね」
自伝のドラマ化にあたり、美知代さんが強くこだわったのは、リアリティの表現だった。
「たった今がんで苦しんでいる人が『このドラマは本当とは違う』、というのだけは絶対いやです」
そう主張する美知代さんに、制作担当の責任者はこう言った。
「わかりました。おっしゃることを考慮しながら制作させていただきます。ただ、申し訳ないのですが、このドラマは横内さんのためではなく、息子さんの永遠君のためにつくります。横内さんにもしものことがあっても、永遠君のそばに寄り添い、一緒に彼を育てていけるようなドラマをつくりたいのです」
その言葉に、美知代さんの目から思わず涙があふれた。ドラマの制作スタッフ全員が、よい作品をつくろうと純粋な気持ちで努力してくれている。その真 摯な思いを感じて、美知代さんは無性にうれしかった。
「死ぬことより、どう生きていくのかを考えましょう」
子供の頃から音楽が好きだった。
東邦音楽大学の付属中学に進学し、高校ではピアノと声楽を専攻。高校1年のときに劇団四季の舞台を見たのがきっかけで、いつしか夢は声楽家からミュージカル女優へと変わっていく。
高校卒業後は日本テレビ音楽学院で声楽と芝居を学び、83年に開園予定の東京ディズニーランドのシンガーダンサーのオーディションに見事合格。約2年半をここで過ごした後、4カ月間の渡米を経て帰国。86年には青山劇場で、念願のミュージカル『アニー』の舞台もつとめた。
そんな順風満帆の人生に陰りがさしたのは、92年のことである。30歳のとき、最愛の母が動脈瘤破裂で急死。その3年後、父が再婚した。実家で1人で暮らす美知代さんが、右胸のしこりに気がついたのは、96年、34歳のときのことだった。
当時、定期的に受けていた子宮がん検診のとき、そのことを相談すると、医師は触診したとたん顔色を変え、がんの専門病院で精密検査を受けることを勧めた。
エコー、X線、血液検査、細胞診。1週間後、検査結果を聞きに訪れた美知代さんに、若い医師はこう告げた。
「悪性のしこりです」
「がん、ということですか」
「はい、そうです。すぐ手術しなくてはならないので、入院予約をしていってください」
その瞬間、美知代さんの脳裏をさまざまな思いが駆けめぐった。
(あれ、TVドラマの告知シーンと違う。本当にがんだったら、本人に言うわけないじゃない。普通は家族に言うもんでしょ)
入院予約に行くと、検査日が仕事と重なっていた。変更してもらおうとすると、看護師に強く叱責された。
「アナタ、がんなんですよ。仕事どころじゃないでしょ」
ふと見上げたホワイトボードには、「乳がんA」「胃がんB」「肺がんC」と、患者を分類するアルファベットが無機質に並んでいる。病院側の心ない態度に傷ついた美知代さんは、入院予約をキャンセル。本当に安心して治療が受けられる病院探しが始まった。
この世界では大変な権威だという高名な医師にも会った。父が苦労してツテを辿り、探し当ててくれたのだ。だが、医師の横柄な態度に反発した美知代さんは、検査を受けることを拒否。それがきっかけで、父親を怒らせてしまう。
知人から帯津良一医師のことを聞いたのは、そんな折のことだった。当時、埼玉県川越市にある帯津三敬病院の院長だった帯津医師は、西洋医学と中国医学、心の医学の融合をめざすホリスティック医学の推進者として知られていた。
「がんの治療をあなたの人生のすべてにしてはいけない。死ぬことより、どう生きていくのかを考えましょう」そう語りかける帯津医師の言葉が、“がん漂流”で荒んでいた美知代さんの心にしみた。
「私は……歌い続けたいです」
がん告知から8カ月後、横内さんは手術で右乳房を摘出。幸いリンパ節への転移もなく、美知代さんは軽やかな気分で退院の日を迎えた。
結婚式を目前に婚約者が失踪
手術後、元気になった横内さんは、多くの知人や友人に囲まれてにぎやかな日々を過ごしていた。そんな横内さんに思いがけず人生の転機が訪れたのは、38歳のときのことである。
友人の紹介で7歳下の男性と知り合い、婚約。彼は美知代さんががんで乳房を失ったことを知ったうえで、プロポーズしたのだった。2000年2月には妊娠も発覚。子供を切望していた彼は大喜びしていた――はずだった。
ところが、結婚式を目前に控えたある日、婚約者が失踪してしまう。突然の結婚キャンセル。明るく前向きな美知代さんもショックでパニック障害を起こし、家から1歩も出られなくなってしまった。周囲からは「中絶しろ」の大合唱が聞こえてくる。だが、美知代さんは反対を押し切って、お腹に宿った命を育てる決意を固めた。シングルマザーとして生きる道を選んだのだ。
だが、乳がん患者の美知代さんにとって、出産は大きな賭けであったことも事実である。
「出産すると、がんも再発しやすくなるかもしれませんね」
そんな帯津医師の言葉は不幸にも的中した。出産を間近に控えた8月、右肋骨へのがんの転移が発覚。翌月、体重1828グラムの小さな男の子が誕生した。名前は「永遠」。再発がんを抱えながら、1つの命をこの世に送り出してしまったことの重みを、美知代さんはかみしめていた。
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