病気になっても、病人にならない
保健師であり、“老舗”患者会会長の長女・椚時子さんのがんとの対峙の仕方

取材・文:編集部
発行:2007年3月
更新:2013年8月

  

“自己診断”で不安を打ち消すも、症状は治まらず

椚 時子さん
椚時子さん
(くぬぎ ときこ)
1962年東京都生まれ。中央大学法学部卒業後、看護学校・保健師学校に入学。30歳より保健師として、保健指導にあたっている。
「どんぐりの会」会員

この日だけは入院したくなかったのに……。

1999年9月、東京・日野市で暮らしている保健師・椚時子さん(37歳=当時)の胸中に、そんな思念が走った。

時子さんの父・總さんが肝臓がんによって他界したのが1989年9月24日。奇しくも、その10年後の9月24日に、娘が大腸がん摘出手術のための入院となったのだ。

そんな時子さんが肛門からの下血を意識したのは入院の約1年前に遡る。ただ、そのときは内痔核からの鮮血であろうと“自己診断”をしてしまった。加えて、保健師という多忙な職業に就いていて、かつ夜間に大学院に通っていたこともあり、検査の時間を捻出することができなかった。これらのことを換言すれば、がんに対する不安は日常生活に溶けていく深刻なものではなかったということになる。

時子「父親が肝臓がんだったので、私も同じ部位か、あるいは婦人科系のがんに罹るかもしれないと思っていました。だから、大腸がんになるという意識はまったくありませんでした」

けれども、1999年の夏前から便秘がちになり、夏場には粘血便が出始めるようになった。

頃を同じく、10数人いた同期の保健師のうち2人から「がんに罹った」という話が舞い込んだ。時子さんの中に不安が広がり始め、大腸検査を受けてみるべきときがきたと自覚したのであった。

父親が遺していったネクスト・ドリーム

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總さんのためにも看護師になるのは、時子さんの夢であった

時子さんの経歴を追うと、大学卒業後、海外協力の仕事に携わりたいという夢を抱きながら、父・總さんが営む印刷業を手伝っていた。そんななか、時子さんが20歳のときより、總さんが肝臓がんを患ったため、看護の道に進めば父親のためにもなるという思いを抱いていた。そして大学卒業後、看護面から海外協力の仕事へのアプローチもできると思い至り、看護学校に進んだ。

けれども1年生のとき、總さんが息を引き取り、病床の父親のために看護師になることは叶わぬ夢になってしまった。けれども、父は娘に「次の夢」を遺していった。

時子「父は、肝炎や糖尿病によって徐々にがんへと進行させてしまった経緯があるんです。だから、生活習慣に気をつければ、父みたいな重い病への罹患を防ぐことができる人はたくさんいると考え始めたんです。そこで、看護学校卒業後、保健師学校に入りました。健康でいるために大切なものを伝えていける仕事は保健師なのだろうと思って……」

また、生前の總さんは、がん摘出手術から7カ月後に6人のがん患者と共に、アルプス山脈の最高峰・モンブランへの頂上近くまで登る快挙を成し遂げた。とりわけ登山とは無縁の人生を歩んできていた總さんのチャレンジ精神は、同じ病と闘う人々に勇気を与え、帰国後にはがん患者やその家族からの相談が殺到した。それを機に1988年、部位別でないがん患者会としては第1号となる「どんぐりの会」が産声をあげた。

保険金を計算し、高級料理で胃を満たした告知日

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大学卒業後も看護師・保健師でさまざまな知識を習得して、新しい世界に飛び立った(右端から母の計子さん、時子さん)

どこの病院で大腸検査を行おうかと思いを巡らせていた時子さんは、外科手術の技術に長けているとの定評がある都内の病院に受診を申し込み、それほど日を置かず注腸検査を受けた。すると、医師から「大きなポリープができていて、手術が必要です。明日、主治医とお話ししてください」と告げられた。

がんに罹ってしまったのかなぁ……。いやいや単なるポリープに違いない……。時子さんは、そんな相反する「不安」と「希望」を母・計子さんに話した。母親は、娘の能天気ぶりに呆れた。

計子「だいたい、検査結果なんていうのは、1週間後くらいに出るものです。『翌日、きてほしい』と言われたのならば、ただのポリープであるわけがありません」

ちなみに、計子さんは、「どんぐりの会」の現会長である。

検査の翌日、時子さんは、担当医から結果を説明された。X線写真には、S状結陽にアップルコア(林檎の果肉を齧りつき食べ残った芯の形に似ていることからそう呼ばれる)が映っていた。けれども、この大腸がんの典型的な病変は、時子さんの場合、半分だけであった。この形を見た時子さんは、それほど進行したがんではないということだけは確認できた。後に手術を受けることになる病院でも、「進行初期」と伝えられた。

そんな告知の夜、時子さんは計子さんと待ち合わせ、高級懐石料理で舌鼓を打った。

計子「私たち親子にとって、がんは身近な病気でした。がんが遠い存在の家族だったら、親としてうろたえていたと思うのですが、私たちは、がん保険からおりる金額を計算して喜んだり、綺麗な夜景を見ながら美味しい料理を食べたりして、気持ちが沈まないようにしたんです」

自身より家族が後悔しない闘病態勢を優先

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がん告知後も、予定通りでかけた沖縄で

告知の2日後、時子さんは沖縄の宿に旅装を解いていた。沖縄に焦がれていた職場の仲間のために自らがプランを練った旅行を、是が非でも決行させたかったのだ。がんの告知を受けても普段どおりに、いや普段以上に生活を楽しんだのは「ある言葉」が胸奥にあったからだ。

こうして時子さんが南の島の風を浴びている約1週間に、計子さんは書店や図書館に通い、娘が入院予定になっている病院の大腸がん手術の実績を調べていた。すると、ランキング表に載っていないことがわかった。

母は娘の帰京を待って、病院の変更を訴えた。けれども、時子さんにとっては、自分が決めた病院をおいそれと変更することには応じられなかった。

計子「娘の命が、まずは大切だから、『お父さんが手術を受けた病院に移ってほしい』と言ったら、激論になったんです。2人とも強情だから、話し合いは平行線のままでした」

時子「母の気持ちはわかるのですが、自分で決めた病院に手術を断ったり、検査データをもらいに行ったりするのは、嫌なことじゃないですか。それに、告知を受けてストレスがかかっているなか、あとは手術を受けるだけだと固めた気持ちを揺さぶられているようでした。でも、激論した夜、入浴しながら考えていたんです。自分ががんや手術ミスで死んでしまったら、悲しんだり後悔したりするのは母なんだなぁ。ならば、母が後悔しない方法をとってあげたほうがいいのかなって……」


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