生は、自らの手でつかみとる。その強靭な心が明日の扉を開く 『キュアサルコーマ』設立メンバー・米澤京子さん
希望を糧に、間断なく攻め立てる転移と壮絶に闘う女性
米澤京子さん
(よねざわ きょうこ) 主婦・
『キュアサルコーマ』設立メンバー
「平滑筋肉腫」という病名を聞いたことがあるだろうか。
「平滑筋」とは、消化管壁や子宮の導管、血管壁など、自分の意志では動かすことのできない不随意筋のこと。この平滑筋にできる腫瘍を、平滑筋肉腫という。軟部肉腫のひとつだ。患者数は10万人に1人と少なく、若い人がかかりやすい病気でもある。手術しても高い確率で再発し、激しく転移を繰り返すのが特徴だ。
現在、この平滑筋肉腫に対する有効な治療法は見つかっていない。したがって転移が見つかるたびに、手術や抗がん剤治療を繰り返すほかないのが実情だ。そんな平滑筋肉腫の患者さんと家族が、一縷の希望をたくして実用化を心待ちにしている治療法がある。「標的遺伝子療法」――大阪府立成人病センター研究所病態生理学部門部長の高橋克仁さんを中心とする研究グループが開発した、新しい治療法である。
高橋さんのグループは、遺伝子組換え技術を応用することで、肉腫に異常発現する結合タンパクのカルポニンだけを標的にする1型単純ヘルペスウイルス(HSV-1)の開発に成功。このウイルスを利用すれば、正常な組織に害を与えることなく、肉腫だけを破壊することができる。ヒトの肉腫を移植したマウスの実験では80パーセント以上で肉腫が縮小。実用化まであと1歩の段階までこぎつけた。
とはいうものの、治験を実現するためには数千万円の研究費が必要とされる。だが、患者数が少ないこともあって世間の関心は薄く、なかなか治験まで持ち込めないのが実情だった。
患者の手で治験実現へ
そんな現状に業を煮やし、立ち上がった患者さんたちがいる。神戸在住の米澤京子さん(30歳)もその1人だ。米澤さんらは、04年12月に患者会「キュアサルコーマ」を設立。研究支援費5000万円を集めることを目標に掲げ、昨年10月末、インターネットを拠点に、厚生労働大臣に研究開発助成を求める署名活動を開始した。
キュアサルコーマに集まった患者や支援者たちが精力的に活動し、口コミで次々に広がった。そんな小さな力が積もりに積もって、1カ月半で10万5000人以上の署名が集まった。その様子は、米澤さんの闘病の取材とともに、12月にOHK岡山放送で、ドキュメンタリー番組『明日への希望』となって放映された。そのかいあって、厚生労働省から平成18年度の研究費補助金が交付されることが決定。治験の早期実現に向けて、大きな1歩を踏み出すこととなった。
「研究者をただじっとみつめて『早く、早く』と念じていてもしかたがない。キュアサルコーマを通じて、1日も早く治験を実現させるための活動を、自分たちの手で進めることができる――それが今の私にとって、精神的に大きな支えとなっています」
そう米澤さんは語る。
現在、米澤さんは、キュアサルコーマのメンバーである東京在住の大西貴子さん(39歳)、岡田真一郎さん(28歳)とともに、リレー方式でブログでの情報発信を続けている。
20歳で平滑筋肉腫を発病し、28歳で再発。以来、幸せに満ちた新婚夫婦の生活は、病魔との共闘の日々へと一変した。間断なく攻め立てる転移との壮絶な闘い。今の米澤さんを支えているのは、「標的遺伝子療法によって平滑筋肉腫が完治するかもしれない」という希望である。
知らされなかった「がん」
米澤さんが平滑筋肉腫を発病したのは、大学2年の終わりの春休み。血液検査を受けた岡山大学医学部付属病院で、胃の後ろの後腹膜に大きな肉の塊が発見された。3週間の検査入院の後、主治医の部屋に両親だけが呼ばれた。病名は「平滑筋肉腫」。だが、それががんの一種であることは両親には知らされたが、米澤さん本人には、知らされなかった。
「手術では臓器にメスを入れることもなく、痛みも感じなかった。だから、オペ自体は苦しいとは感じませんでしたね。若くて回復も早かったから、退院してすぐにテニスも楽しめた。またできたら切ればいいや、と簡単に考えていましたね」
その後、何事もなく6年が過ぎた。03年には学生時代からつきあっていた男性と結婚し、念願の新婚生活がスタート。
幸せをかみしめる米澤さんを再び病魔が襲ったのは、1回目の結婚記念日を控えた04年7月のことである。岡山大学で受けたCT検査で、両肺と肝臓に肉腫が見つかったのだ。
2度目の手術は、右肺3分の1と肝臓の45パーセントを切除する大がかりなものだった。左肺の1個を残し、全部で5個の肉腫を摘出。術後には、1回目の手術とは比べものにならないほどの痛みが襲ってきた。
自分だけが真実を知らなかったショック
退院後、インターネットで情報収集を開始。平滑筋肉腫で亡くなった若い男性のホームページを見つけた米澤さんは、初めて事の重大さを知る。
「ああ、肉腫ってがんなんだ、死ぬ病気なんだな、と……。そのときのことはボーッとしてハッキリ覚えていないんです。『自分ががんだ』という事実より、同じ病気で同い年で亡くなっている人がいる、そのことのほうがショックでしたね」
1週間後に出た検査結果では、頼みの綱の分子標的薬グリベック(一般名イマチニブ)も効かないことが判明。左肺にはまだ、手術では取りきれなかった腫瘍が残っている。しかも退院後に受けたPET検査では、「リンパ節転移の疑い」まで指摘された。次から次へと悪いことが重なり、八方ふさがりの状態が続く。ワラにもすがる思いで、気功や漢方薬、民間療法などを片っ端から試した。「なんでもいいから腫瘍を消して、という気持ちでしたね」
何よりショックだったのは、「家族全員の中で自分だけが真実を知らなかった」ということだった。ふと、県外への就職が決まったとき、両親から強硬に反対されたことを思い出した。「結婚したい」といったときも、両親はなぜかためらいを見せた。それも、私ががんだと知っていたからだと考えれば、すべてつじつまが合う。
(もっと私のことを信じて教えてくれていたら、再発だってしなかったかもしれない)
そんな理不尽ともいえる恨みさえ抱いた。親友にさえ本当のことを打ち明けられず、夜中に独りでワーッと泣き伏すこともあった。この頃が一番つらい時期だったかもしれない――と、米澤さんは振り返る。
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