ブログを通じて日本版リレーフォーライフの実現をめざす 「がん患者支援プロジェクト」代表・三浦秀昭さん

取材・文:吉田燿子
発行:2006年4月
更新:2013年9月

  

夜明けが来ることを信じて仲間と歩き続ける

三浦秀昭さん
三浦秀昭さん
(みうら ひであき)
「がん患者支援プロジェクト」代表

リレーフォーライフ(Relay for Life)、というイベントがあるのをご存じだろうか。

直訳して「命のリレー」。がんのサバイバーや支援者が、朝まで夜通し交代で公園や競技場のトラックを歩き続ける、24時間チャリティー・ウォークである。

会場ではがんで亡くなった人々の追悼セレモニーのほか、夜店やバンド演奏、ダンスなどの催しも行われる。1985年にアメリカで始まって以来、今では全米4000カ所以上、世界20カ国以上で開催される最大規模のがん患者救済チャリティ・イベントに成長した。

このイベントの日本での実現をめざし、インターネット上のブログを拠点に活動している1人のサバイバーがいる。

三浦秀昭さん。横浜市在住の元ビジネスマンだ。

三浦さんががんの告知を受けたのは2年前のことだ。「ステージ3Bの肺腺がん」――一時は死も覚悟した三浦さんだったが、闘病を通じて2度にわたるがんの再発を克服。退職後に立ち上げたブログが反響を呼び、日本版リレーフォーライフの実現をめざす「がん患者支援プロジェクト」が結成された。

その活動はマスコミでも注目され、三浦さんは「第2回がん患者大集会」の実行委員にも就任。彼のアピールは地域や国の枠を超えて、大きな広がりを見せ始めている。

「ブログを始める前は自分も1患者にすぎなかった」と語る三浦さん。彼の背中を押し、行動に駆り立てているものとは一体何なのか。その軌跡をたどってみたい。

肺腺がんを宣告されて

写真:日光でのスナップ
30代半ばの頃。社員旅行で訪れた日光でのスナップ

写真:同期入社の友人たちと
同期入社の友人たちとの交歓風景

写真:戦略事業部のメンバーたちと
苦楽を共にした戦略事業部のメンバーたちと

昭和31年北海道札幌市生まれ。大学進学で上京し、昭和54年に大手カード会社に入社した。営業畑を歩んだ後、45歳のとき、本部に新設された「戦略事業部」に異動。2つの課を任され、新規ビジネス開拓というエキサイティングな仕事に関わることになる。

「戦略事業部」は、既存の縦割り組織ではできない新規事業を立ち上げるために作られた、役員直轄の特命組織だった。自社カードに付加価値を付け、カード会員を650万人から1000万人に増やす――会社の命運を賭けた壮大な目標の下、会員のデータ分析からマーケティング、提携会社との交渉、新情報系システム構築までを一手に引き受けた。億単位の予算を委ねられるだけに、そのプレッシャーも並ではない。若手メンバー主体の組織の中で、これまでに経験したことのない重責が三浦さんの双肩にのしかかった。

「連日夜9時過ぎまで会社で仕事し、週末は自宅で企画書書き。常時仕事に追いまくられているような状態で、ストレスはかなりのものでしたね」

仕事一筋の超多忙な日々。だが、会社の将来がかかった戦略事業部での仕事は、ビジネスマンにとって一世一代の大舞台でもあった。そんなある日、苦楽を共にしてきた同僚が、結核で入院するという出来事が起こる。感染を危惧して会社の成人病検診でレントゲンを受けた三浦さんの肺に、不吉な影が映った。

CT検査と2度の内視鏡検査の結果、右肺中葉の奥に3センチを超えるがんの原発巣と、縦隔リンパ節への転移が見つかった。ステージ3B。非小細胞がんの肺腺がんだった。

妻や両親とともに、三浦さんが昭和大学横浜市北部病院で告知を受けたのは、2003年4月20日のことである。

「まさか自分が、と思いました。せっかくここまで積み上げてきたものが崩れてしまう。そのショックで、頭の中が真っ白になりましたね」

三浦さんをはじめ、同席した家族の誰もが「がんは不治の病」と信じ込んでいた。「余命はどのぐらいですか」と両親が医師に尋ねる声がうつろに響く。衝撃で言葉を発することもできない三浦さんに、主治医がこう告げた。

「今は手術以外にも、抗がん剤や放射線治療などいろいろな治療法がある。がんといっても、治らないことはないんですよ」

少しだけ光が見えた。

帰宅後、三浦さんは猛然とインターネットでがんの情報を集め始める。なかでも三浦さんの心を捉えたのは、肺がん患者が書いたネット闘病記だった。

「これには勇気づけられましたね。自分も前向きに戦わなければいけないんだな、と」

とはいうものの、新規プロジェクトが佳境の時期に、会社に病気のことを報告するのはさすがにためらわれた。5日間考えた末、思い切って告白すると、上司の役員は言った。「いつまででも席を空けておくからな」

若い部下たちも口々に三浦さんを励ましてくれた。その気持ちが、涙が出るほどうれしかった。

医師任せでいいのか

写真:抗がん剤治療を開始したころ
2003年5月、抗がん剤治療を開始

写真:昭和大学横浜市北部病院の病室
昭和大学横浜市北部病院の病室

5月から、シスプラチンとビノレルビンによる3クールの抗がん剤治療が始まった。8月からは74グレイの胸部放射線治療を受け、完全寛解まで持ち込むことができた。放射線の後遺症で肺炎を併発したものの、ステロイド治療により治癒。当初の予想を超えて、治療は順調に進むかに見えた。

だが、退院を目前に控えた12月、ある出来事がきっかけで、三浦さんに微妙な心境の変化が訪れる。リンパ節転移の有無を調べるため、外科医の勧めで縦隔胸腔鏡検査を受けることになったのだ。

だが、全身麻酔による7時間もの大がかりな検査にもかかわらず、転移は見つからなかった。しかも検査の後遺症で、その後1年間、三浦さんはひどい肋間神経痛に悩まされることになる。

「神経に触れたのか筋肉を傷つけたのか、それはわかりません。が、とにかく後遺症がつらかった。左の横隔膜が上がりっぱなしで、左肺の肺活量も通常の55パーセントまで落ちてしまった。胸腔鏡検査に同意はしたものの、『PETでよかったのでは』と悔いが残りましたね」

それまでの三浦さんは、医師を絶対的に信頼する「模範的」な患者だった。自分で治療法について調べたとしても、最終的には先生の指示に従うのが当然、と考えていた。だが、このときの経験から、初めて『医師任せでいいのか』という疑念がきざした。「患者と医師は対等であるべき」という三浦さんの信念は、このときの経験が発端になっているといっていい。

ついに退職を決意

2004年1月、会社に復帰。待ちに待った仕事へのカムバックに、三浦さんの心は躍った。会社の好意で遅出は認めてもらったものの、出社してしまえば仕事は山のように待っている。入院前と同様、遅くまで仕事をする日が続いた。

そんな生活ぶりがたたったのか、4カ月後、再び病勢がぶり返す。PET検査で縦隔リンパ節への転移が見つかったのだ。

がんが再発したということは、体内にがん細胞が確実に存在することを意味する。このときのことを、三浦さんはブログで「戦闘開始」と書いている。

「今思えば、それまで病気を甘く見ていたんでしょうね。もう治ると思っていたのに再発してしまった。放射線治療はピンポイントの局所治療で、いわばモグラ叩きみたいなもの。『これは大変だ、このまま仕事を続けていたら私は死んでしまう』と思ったんです」

三浦さんは放射線治療を受けることを決断し、再び完全寛解に持ち込んだ。だが復職3カ月後の10月、今度はがんによる疼痛が追い討ちをかける。

ところが、痛みの原因がどうしてもわからない。対症療法で痛み止めを飲むしか手がなく、会社も休みがちになった。三浦さんはついに退職を決意する。

「無念でしたね。会社には未練もあったし、上司や部下とは気持ちが通じ合っていましたから。でも、このままでは仕事どころか命を失ってしまう――そう思って、やっとあきらめがついたんです」

仕事一途で家庭を顧みなかった三浦さんにとって、病気は家族との絆を取り戻すよい機会にもなった。

「妻は毎日家で食事を作って持ってきてくれましてね。昼と夜はほとんど病院食を食べず、栄養過多になりそうなほどだった(笑)。それほど僕に尽くしてくれたんです」

これからは仕事のためでなく、家族のため、人のために生きたい――退職を決めた三浦さんの心の中で、何かが大きく変わろうとしていた。

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