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直径30センチの巨大腫瘍から、私はこうして生き抜いた


発行:2006年3月
更新:2013年8月

  

信じられないような真っ赤な血尿

思い起こせば、「よくぞここまで生き延びたなあ」と思う。普通ならなかなかこうはいくまい。実際、彼自身、1度は諦めかけたこともあった。それでも諦めず、踏ん張った。その結果が、こうして4年半の生存、それも単に生きながらえるだけでなく、仕事をしながら、家族と楽しく過ごしながらの生存に結びついたのだ。

村岡雅史(仮名)さん。大柄だが温和な顔立ちの46歳の歯科医である。東京・国分寺市に妻、子供2人と住み、近隣の立川市で歯科医院を開業している。子供はまだ8歳と4歳と小さく、要らぬ心配をかけたくないとして、仮名を希望された。

2001年7月終わりのある日のことだ。夜中にトイレに駆け込んだら、血尿が出た。村岡さんはこう振り返る。

「イチゴシロップのような真っ赤な尿がバーッと出たんで、最初は自分が寝ぼけてると思ったぐらい。その日、家族と海へ遊びに行ったので、その疲れから血が出たかなとか、まだあまり気にかけてなかったんです」

ところが、翌日もその血尿は止まらなかった。とうとう夜中に1人抜け出して比較的近くの都立府中病院まで車を走らせ、救急外来へ駆け込んだ。大袈裟に騒ぎ立てると、家族が心配すると思って。

救急外来では、担当医が専門外のこともあって、「止血処置だけしましょう。後は泌尿器科で診てもらってください」と言われ、翌日、泌尿器科へ。

泌尿器科では、問診、触診、エコー(超音波検査)で診た後、医師は「確定診断はCTを撮らないとわからないけど、大方の察しはつきます」と言い、腎臓に巨大な腫瘍があることを告げた。すぐさま入院日、手術日が決められ、それまでに一通りの検査が行われることになった。

直径30センチ、3.5キロの巨大な腫瘍

村岡さんは、身長183センチ、体重120キロという、相撲力士といっても十分通用するぐらい立派な体躯の持ち主。その体を活かし、学生時代は柔道部。練習をしてもまったく疲れを感じないというくらいの“スーパーマン”だった。それぐらい体には自信があった。ただ、人との争いは好まない性格で、部活にはあまり熱心ではなかったとか。

「だからショックでした。でも、太って肉の厚みがあるから全然わからなかった。先生に言われて触ってみると、何かあると初めてわかったんです」

と、今だからこそ村岡さんは笑いながら話す。

その何かが、実は、主治医ですら見たこともないような巨大ながんであったとは。これは、CTを撮り、手術で切除して、確認されるが、村岡さんもさすがにぎょっとした。大きさ直径30センチ以上、重さ3.5キロ。ちょうど大きな新生児ぐらいで、それは腹部CT画像上ではほぼ7割ぐらいを占めていた。主治医からこの巨大な塊を見せられた家族はもっと仰天した。

「こ、これが全部ですか」と、言うのが精一杯だったそうだ。

こうして手術は成功した。

しかし、これだけ大きながんだと、予後もよくないことは、素人でもある程度予想がつく。ただ、心配な転移については、主治医の診断では、一応「ない」で、ステージは「3B」だった。もっとも、非常に微妙な見通しで、「CTを診る限りはないように見えるが、怪しいものがあるが、確定はできない」という。怪しいものとは、肺に“点”のような感じに見えるものがあるが、だからといって、現段階ではあるともないとも言えないというものだ。しかし、これが、やがて大きな爆弾となって村岡さんの肺を襲い掛かろうとするのである。

だからそんな恐れも抱いた村岡さんは、切った後は、隠れている微小ながんを免疫療法でたたこうと考えた。ところが、この選択は失敗だったと、やがて思い知らされることになる。

効かなかった免疫療法

実は、この手術をしてからが村岡さんのがん体験の「本舞台」。これ以降、まるで坂道を転げ落ちるように奈落の底へと落ちていき、同時に、少しでもすがるわらがないかとわら探しの迷走が始まることになる。

この治療は、大量の健康食品を飲むだけである。村岡さんは、指示通りそれを飲んでいた。しばらくは何ともなかった。しかし、その年の暮れごろから咳が出始める。それが次第にひどくなり、強力な咳止めを飲まないと治まらず、それで咳を抑えながら仕事をするようになった。

手術から6カ月後、恐れていたことが現実となった。撮影したCT写真で肺に3カ所転移があることが判明したのだ。咳の原因は明らかにこれだった。しかし、主治医は「これぐらいならこの免疫療法で大丈夫」と言って、相変わらずの健康食品療法を勧める。

最初のうちはその言葉も力強く感じた。しかし、いくらそのとおりに実行しても、一向によくなった気配がない。いや、むしろ悪化していることは自分でも感じるようになる。それで村岡さんは主治医に強く訴えると、「それなら免疫系の健康食品を倍飲んどいて」「大丈夫、大丈夫」という返事なのだ。

しかし、やはり結果は出ない。ついに2002年後半ごろには、村岡さんの体の状態は相当に悪化した状態になった。胸水が溜まり、呼吸が苦しくなり、平面を歩くのがやっとの状態。咳にも悩まされ、血痰まで出るような悪化の呈。2階にある職場まで上がるのがこれまた大変。心臓がコンコンコンと早鐘を打つように鳴り、今にも死にそうな感じにまでなる。歯医者はマスクをして患者さんに向かうが、そのマスクがさらに彼を息苦しくさせる。こんな状態でよくよく仕事をしていたものだと感心する。

ここまで来ると、主治医も重い腰を上げた。「肺のほうはイレッサでみんなやっつけちゃいましょう」と言い出した。イレッサは、当時肺がんの夢の新薬とマスコミでももてはやされており、村岡さんの食指は動いた。しかし、このころにはさすがの村岡さんも主治医の治療に疑いを抱き出し、にわかには信じられなくなっていた。ほかの医師にセカンドオピニオンを求めることにした。

「がんは確実に悪化していますね。今ここでは患者さんを実験台にイレッサを闇雲に処方しているようです。止めたほうがいいですよ」

うすうす疑いを感じていた村岡さんもこれで踏ん切りがついた。

温熱療法も、インターフェロンも効かず


活性化リンパ球療法も効果を上げなかった

しかし、離れるのはいいが、問題はこの体をどこで治療をしてもらうかだ。すぐに探し出す必要がある。腎臓がんには抗がん剤は効かない(2006年当時)。その代わり、免疫療法が効くと言われるが、1度失敗しているので、他のもっと有効なものとして何があるか。一番効く可能性があるものは、サイトカイン(細胞が分泌する活性物質)のインターフェロンとインターロイキンである。ネットで探し出すと、「花小金井クリニック」というクリニックが出てきた。ここは、泌尿器科専門の診療をしてくれ、温熱療法をメインに、免疫療法では活性化リンパ球療法を行っている。自宅からも近く、ピッタリと思い、行った。

温熱療法は、がん細胞が正常細胞よりも熱に弱いという特性を活かしてがんを殺す療法である。全身に熱を浴びせると体力を相当消耗するので、多くは局所療法として利用されている。花小金井クリニックでも同じで、村岡さんは、そこで温熱療法機器「サーモトロンRF8」という装置による治療を2度受けた。ところが、病巣に焦点を合わせた中心部の温度がなかなか上がらない。41.5度以上になれば、がん細胞が死滅されるというのに、そこまで上がらないのだ。結局、ダメで、そこで、活性化リンパ球療法だけを治療してもらった。

しかし、病状は依然改善されない。当時の村岡さんは骨にも転移しており、車に乗っていても道路のちょっとした凹凸により揺れるだけでも痛くて苦しい状態。

そこで、これだけ悪くなれば、再度府中病院に戻る手があることにハタと気がついた。もう1つ、やはりネットで探していて、血管内治療という新しい治療の存在に気づき、ことに横浜にある血管内治療専門のメイクリニックの院長が「とくに腎臓がんがよく効く。これまで死亡者を出したことがない」と言っているのに惹かれた。

結局、府中病院ではインターロイキンは入院しなければ治療できないというので、医院を店じまいするわけにはいかない村岡さんは、そこではインターフェロンの治療だけをお願いし、インターロイキンは花小金井クリニックで処方してもらった。そしてメイクリニックで新しい治療を受けたのだ。

村岡さんは当時をこう振り返る。

「子供がまだ小さく、この子たちのためにも何としてでも生きていかねばという必死の気持ちでしたね。そのためには少しでも効くというものがあれば、試す。それも入院すると仕事ができませんから、通院か自宅でできる治療を探し求めたのです」

要するに、村岡さんは、文字通りさまざまな治療の人体実験を体験していくわけである。しかし、その甲斐もなく、胸水のたまりが速くなり、いよいよ限界点に達しようとしていた。


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