氷壁に挑み続ける山男の「がん」をものともせぬ生き方 登山家・磯部道生さん
夢をあきらめない。それが、「生きる」ということ
磯部道生さん
(いそべ みちお)
登山家
関西屈指の温泉地・有馬は、六甲山の北側に位置する盆地だ。街から近い手軽な温泉として、関西人に人気がある。
その地元で、「有馬3奇人」の1人とされるのが、登山家・磯部道生さん(61歳)だ。彼は、2003年8月、胃がんで、胃と脾臓の全摘手術を受けた。
ふつう、「がん」と診断されれば、動揺する。手術前後は、ふだん忙しく動いている人でさえ、病室で安静に過ごすものだ。
ところが、磯部さんの場合、病室でじっとしていたのは、麻酔で意識が朦朧としていた手術日当日だけ。翌日にはもう病院を飛び出して、トレーニングを再開した。退院するまで毎日、炎天下、病院の廊下で使う点滴スタンドをそのまま引っ張って、4~5キロを歩く。
そして1年後には、アルプス山脈の秀峰・マッターホルンの単独登頂を果たした。
磯部さんはなぜ、それほどまでに逞しく生きられるのだろうか。磯部さんを前へ、前へと突き動かす「原動力」は何なのか?
11月下旬、磯部さんを訪ねた。有馬に近い山里に、スポーツ施設の設計や施工を手がける磯部さんの事業所がある。周囲の山は鮮やかに紅葉し、室内ではストーブが焚かれていた。
井上靖の小説『氷壁』では、ある60歳近い山男のことを、こう描写している。
〈かつての精悍な山案内人は、多くの山案内人がそうであるように、いまは苦渋に満ちた表情と二つの優しい小さい眼を持っている〉
まさに、磯部さんもそんな風貌だ。挨拶を交わすが、ニコリともしない。彼自身、40年来の「山案内人」でもある。
ところが、しばらく話してみると、彼がとても朗らかな人だとわかる。落語家のようにテンポよく語り、顔中で笑う。
山に命をかける
磯部さんは有馬温泉で生まれ育った。有馬には、六甲山から降りてきた登山客が大勢訪れる。岩登りをする人もいる。磯部さんも自然と、山や岩場に登って遊ぶようになった。真冬になって滝が凍ると、アイスクライミングに熱中した。
15~16歳から、本格的な氷壁に挑み始める。白馬の北アルプスをほっつき歩いている、自称「山乞食」だった。冬の間は山小屋の小屋番をする。春には修学旅行生のハイキングに同行したり、カメラマンを最高のアングルに案内したりした。20歳で最年少の「山案内人」になっていた。当時は、登山が最も脚光を浴びた時代だ。「あの北壁をだれが登るか」「関東のもんに負けたらあかん」などと、東西の登山家らが命がけで競い合っていた、という。
「真剣に、命をかけられるのが山。1回落ちたら、もう終わりやからね。おかしなもんで、登っている最中は、“こんなつらいこと嫌や。もう2度と来ない。家に帰ってぬくい布団で寝たい”と思う。けど、家に帰ってきたら、また、あの厳しいところに行きたなんねん。習性やと思うけどね」
25歳ごろ、有馬でスポーツ用品店を開いた。お客さんの道具選びをプロの眼で手伝い、一緒に楽しむ。登山やスキーのツアーを企画して、白馬周辺の北アルプスや鳥取の大山など各地の山に同行する。毎年、年間100日ほどは山で過ごしてきた。
磯部さんには、大きな夢があった。いつかヨーロッパの3大北壁、「マッターホルン」「アイガー」「グランド・ジョラス」に登ると決めていた。世界の登山家があこがれる山だ。50歳代になったら、PTAや地元の消防団の役職から離れて、この3大北壁に挑戦するつもりだった。
ところが、阪神淡路大震災によって、その夢が遠のく。自宅は半壊し、六甲から有馬に続く山道も大きく崩れた。消防団の仕事を続けざるを得なかった。時間を見つけては、山道を修復して歩く。一方、経営者としては、自分の事業に家族や社員たちの生活がかかっている。がむしゃらに働いた。5年経って、ようやく暮らしが落ち着く。
そこで還暦を前に、マッターホルン(標高4478メートル)行きを計画し始めた。難しい「北壁ルート」を単独で登りたい。体験者に話を聞き、資料を調べ、1年がかりでルートを頭に描いていった、という。
出発直前に見つかった「がん」
2003年8月。マッターホルンへの遠征を1カ月後に控え、磯部さんは健康診断を受けた。このときに胃がんが見つかる。旧知の医師が、ふだん通りの口調で言った。
「悪性のもんや。2週間ほど休んで、胃を切るほうがええで」
「胃を切るって、何でんねん?」
「がんや」
「がんて、がん保険がもらえる“がん”か?」
「そうや。れっきとしたがんや」
「そうか。保険がおりたら、また山に4~5回行けるなぁ。切るのは、ヨーロッパ遠征の後でかまへん?」
「いや、病気持って行っても、面白ないやろ? 切って、1年遅らせたらどうや?」
「そしたら、そないしよか。でもトレーニングはスケジュール通り続けていくで」
「そら、かまへんで」
磯部さんは以前、「がんだと言われたら、のたうち回って、生活が荒れるだろう」と想像していた。が、医師が率直に説明してくれたので、がんに対する怖さや不安はまったく感じなかった、という。
その翌日、磯部さんは予定通り富士山に登り、2日間のトレーニングをした。3600メートルの高所に身体を慣らす訓練だ。下山すると、入院までの3日間、焼き肉などを腹一杯食べた。術後はあまり食べられなくなる、と聞いたからだ。
長年、朝晩1時間ずつ、山や岩場に登ってトレーニングするのが日課だった。入院後も、手術までの1週間、磯部さんはできる限りの運動を続けた。朝6時、病院の勝手口が開くと同時に外へ飛び出す。朝食までの2時間、病院内外をジョギングする。食事の時間だけ、病室に戻る。ほとんど病室にいなかった、という。
「『病気や』という認識がなかったね。がん患者の人にステージをたずねられても、知らないから答えられへんかった」
磯部さんは、当時をそう振り返る。
入院中、磯部さんは、胃がんで入院している知人と、たまたま病院で出くわした。
「磯部さん、どこが悪いの?」
「胃がんで2週間入院せえと言われてん」
「私も2週間と言われて、もう2年入院してるねん。あなたもそう思うとき」
「いや、そんな時間はないんや」
還暦を前にした磯部さんにとって、自覚症状のないがんよりも、登山家としての体力や気力の衰えのほうが、よほど怖かったに違いない。もし1年後を逃せば、長年夢見たマッターホルンを2度と狙えないかもしれない。これこそが最大の関心事で、がんのことを考える余裕はなかったのだろう。
手術した日、夜、麻酔が切れると、こっそり病棟内を歩いた。翌日は、点滴スタンドを引っ張って、5階にある病室から階段を下り、病院の外にある喫茶店まで歩いた。そこで「食べる練習をしよう」と、トーストを頼んだ。一口食べるとたちまち吐いて、倒れた。店の人が慌てて救急車を呼んだ。それでも懲りずに、翌日もまた点滴スタンドを引っ張って出かける。3日も経つと、毎日4~5キロを歩いていた。
驚異的な回復を支えたのは、“胃がのうなっても、マッターホルンを単独で登ったる!”という気迫だった。
全力でリハビリするものの、食べられないからどんどんやせていく。あるとき、12キロやせた自分の姿を鏡で見て、磯部さんはギョッとした。頬がこけて、まるで別人だ。思わず、こうつぶやいていた。
「あかんなぁ。ほんまの病人になるで。早く社会復帰せな」
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