“奇跡を生むんだ”と「がん春」まっ只中の小児科医
田村明彦さん

取材・文:塚田真紀子
撮影:谷本潤一
発行:2005年7月
更新:2013年8月

  
田村明彦さん

パッチ・アダムスのような赤鼻をつけて予防接種をする田村明彦さん(田村小児科医院で)

私の手元に、一風変わった「育児書」がある。その本、『新米ママがんばれ! ~だいじょうぶだよ』(新風舎)は、今年1月に出版された。

著者は小児科医の田村明彦さん(70歳)。小児科医院を開業して25年になる。この本の表紙では、彼自身が “アメリカの赤ひげ”パッチ・アダムスを思わせるリンゴのような鼻をつけ、にっこりとVサインをしている。

田村さんはゼロ歳児の発達・病気について書きながら、ことあるごとに「がんばれ! 新米ママ! だいじょうぶだよ!」と語りかけている。それが数回だったら、たぶん驚かない。が、本文中にそのフレーズがざっと20回も出てくるのだ。しかも、詩人・大和蓮華さんの、ふっと肩の力が抜けるような温かい詩が随所に織り込まれている。

あとがきでは、彼自身ががん闘病中であることを明かし、こう呼びかけている。

〈いつでも、メールしてください。どんなことでもいい。間に合わないときは電話して下さい。できるかぎり役に立ちます〉

彼は自分のありったけの力を込めて、子育てで悩む親たちにエールを送っている。いわゆる“医師”のスタンスとはずいぶん違う。なりふりかまわず、といった印象を受ける。

田村さんは、2年前、2003年5月に悪性リンパ腫と診断された。治療を受けながら、乳幼児健診などの仕事を続けている。

もしかしたら、彼が繰り返す「だいじょうぶだよ」という言葉は、彼自身が言われたい言葉なのかもしれない。がんの経験によって、医師として変わったのだろうか。

西宮市にある田村小児科医院をたずねた。

まさか自分ががんに!?

「がんだとわかったときには、地団駄を踏みましたよ。悔しくてね、たまらなかった」

田村明彦さんは、そう言いながら、顔をしかめ、足をバタバタさせる。いかにも小児科医らしい、気さくな人だ。

2年前の2003年5月、右の鎖骨の辺りに小さなしこりが飛び出しているのに気づいた、という。大阪府立成人病センターを受診し、非ホジキンリンパ腫の2期だとわかった。後に、4期だと判明する。

「明日が見えなくなりました。ふだん医師として虚勢を張っている分、一般の患者さんより、もっと意気地がないと思うよ」

診療をしていても、気持ちがどこか上の空で、夜は睡眠薬が必要だった。

「がんになるような生活をしていなかったんですよ。だって、僕、タカラヅカファンだから、“清く、正しく、美しく”生きてきたんですもん」

噺家のようにポンポンと言葉が飛び出す。

田村さんは若いころから肉を控え、野菜や大豆、魚、発芽玄米を食べてきた。タバコも酒ものまない。開業してからは、診療後にテニスコートやジムに通い、日曜日には近所の人たちと1時間ほど走った。そのメンバーでフルマラソンにも出場する。油絵を描き、睡眠はたっぷりとり、吉本新喜劇で大笑いする。不養生な医師が多い中、珍しいほどの摂生ぶりだった。

「生活習慣病にならない生活をするのは、医師としての責任。それに、僕は自分がかわいかったから、がんになりにくい生活を心がけていました」

半袖シャツの袖口からは、テニスで鍛えたポパイのような腕が伸びている。

生真面目な生き方は、若いころからの習性だ。医師になるためにも、一途な思いで努力を重ねた。人生を決定づけたのは、かわいい盛りの弟の死だった。

弟の死と「魔法の力」

第2次世界大戦のまっ只中の1943年、田村さんは北海道の小樽にあった三軒長屋で、両親と姉、3人の弟たちと暮らしていた。当時、10歳だった。

そこへ、母の弟である叔父が、重症の肺結核を患い、這うようにして転がりこんでくる。叔父は、絶えず咳き込み、ぜいぜいと苦しそうに息をしながら、1人、2階の部屋で臥せっていた。姉弟が学校に行っている間、5歳の嘉朗ちゃんだけが叔父のそばで遊んでいた。間もなく叔父が亡くなる。

そしてある日、高熱で寝ていた嘉朗ちゃんが夜中に突然、ひきつけた。激しい痙攣に身体を震わせ、意識がない。両親の指示で、田村さんが医師を呼びに走った。

「弟が死にそうです。助けてください!」

「わかったよ。すぐ行くからね」

夜中なのに、医師は嫌な顔ひとつせず、やさしく言った。田村さんはその対応がうれしくて、涙ぐんでいた。

医師が到着し、鎮静剤を注射すると、嘉朗ちゃんの痙攣はたちまち治まった。田村さんは「魔法の力」に驚嘆する。医師はその場で病院への入院をてきぱきと手配した。

結核性髄膜炎だった。病院で治療を受けたものの、数日後、嘉朗ちゃんは逝ってしまった。田村さんは3日3晩、家のトイレの前にしゃがみ込んで泣き続けた、という。泣くとおしっこに行きたくなるので、トイレから離れられなかったのだ。

(弟の敵を取ってやる!)

病気が憎かった。「魔法の力」を持つ医師になろうと決意した。

“奇跡”で医学部へ

写真:医学部1年目の解剖学実習で
医学部1年目の解剖学実習で(1958年)

高校生になってみると、田村さんにとって、北海道大学の医学部は「超難関」だった。英語や歴史など文系の科目が得意で、理数系は大嫌い。高校2年生になると、担任は私大の英文科を勧めた。それでも夢はあきらめきれず、猛勉強を始めた。

ところが、その年の秋、住んでいた社宅が全焼するという事件に見舞われた。勉強部屋も受験参考書もすべて灰になってしまった。引っ越した先では、子ども5人が六畳一間の生活だ。自分に与えられた畳1枚分のスペースで、田村さんは受験勉強を再開しようとした。が、火事のショックで、身がはいらない。

ある日、苫小牧の映画館で黒澤明監督の『生きる』を観た。がんの末期だとわかった志村喬さん演じる行政マンが、巨悪と闘い、市民のために人生の残り時間を精一杯生きる。田村さんは、この映画に魂を揺さぶられるように感じた。「僕も人のために生きたい」と気持ちを立て直した。

最初の年の北大受験は不合格だった。やっとのことで、翌年、北大の一般教養学部理類に合格した。2年間、優秀な成績を修めれば、医学部に進むことができる。

ところが、大学生活はバラ色ではなかった。家が貧しく、授業料は全額免除されたものの、生活費を稼がねばならなかった。引っ越しの助手や雪下ろしのバイトで疲れ果て、授業をさぼりがちになった。理系科目の成績はどれも「不可」で、3年生のとき、医学部への進学はかなわず、数学科に入った。それでも医学部をあきらめきれず、1年後の補欠募集を受けた。不合格だった。

ふつうなら、ここらで見切りをつけるだろう。が、田村さんはさらにもう1年、がんばる。最初の大学受験から5年が過ぎた。翌年の補欠募集の面接試験で、「医師を志望する思いは?」と聞かれ、こらえていた思いがあふれた。田村さんは弟の死にまつわる話を涙ながらに語り、こう付け加えた。

「私の適性は全く文系です。自然科学が不得意です。しかし、子どもが大好きな小児科医にはなれると思うんです。私は小児科医になりたいのです」

その言葉に試験官が大きくうなずいた。合格者8名の中に、田村さんの名前があった。“奇跡”だと田村さんは思った。

医学部に入学してみると、意外にも、理数系の勉強で困ることは全くなかった。卒業後は、大阪市立大学病院を皮切りに、20年間小児科医としての勤務をしながらさらに勉強に明け暮れた、という。


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