がんと難病の二重苦にも負けない生き方の秘訣
ジャーナリスト・柴野徹夫さん

取材・文:塚田真紀子
撮影:谷本潤一
発行:2005年3月
更新:2019年7月

  

なぜ、そんなに明るくできるの?

柴野徹夫さん
柴野徹夫さん
(しばの てつお)
ジャーナリスト

不思議な人がいる、と耳にした。

がん患者なのに落ち込むこともなく、いつもニコニコして歌を口ずさみ、意欲的に仕事をしている、というのだ。

以前この連載で、詩人・福島登さん(73歳)を紹介した。肝臓がんの末期を生きる中で、初の詩集を上梓された。作品の高い価値を認め、出版を実現させたのが、ジャーナリストの柴野徹夫さん(67歳)だった。今回の「不思議ながん患者」その人だ。

彼は8年前、59歳で「進行性胃がん」と診断され、全摘手術を受けた。がんは、「生きる意味」を考えさせる一大事だった。だが落ち込んだり、途方に暮れたりした記憶があまりない。がんだとわかったとき、死を意識し、いっとき頭の中が混乱する経験はした。それでも病状が把握できると、残り時間の使い方に神経を集中させた。

おまけに昨年6月、進行性の難病「多発性筋炎」に冒されていると判明した。自己免疫が自身の筋肉細胞を破壊する病気で、脚の筋肉萎縮が急速に進んでいる。原因不明、治療法はない。「2~3年後には全身の筋力が衰え、歩行不能で車イス生活になる」と医師は診断する。それでも、失望しない。

柴野さんは戦時中に子ども時代を過ごし、その後の人生の底辺にはいつも「戦争」があった。今、病気にとらわれることなく、戦争を食い止める運動に命をかけている。

がんの受け止め方は人それぞれ。ふつうはひどく落ち込み、悶々と苦悩の日々を送る人が多い。

不本意ながらも、がんの恐ろしさにとらわれ、立ちすくんでいる人にとって、柴野さんの生き方は、何かのヒントになるかもしれない。その秘訣を聞こうと、大津市郊外の仕事場をたずねた。

「どうぞ、何でも聞いてください」

人生は戦争風景から始まった

写真:仕事場の柴野さん

子どもの頃の体験が、のちの人生の「原点」になることがある。

柴野さんの育ち盛りは、太平洋戦争のまっただ中だった。「欲しがりません、勝つまでは」「贅沢は敵だ」が合い言葉。大人も子どもも、栄養失調で骨と皮になっていた。

連日、ラジオのニュースでは軍艦マーチが轟き、「大本営発表!」と日本軍の大戦果が報道された。大人たちは歓声を上げた。

「赤紙」(徴兵令状はがき)が次々と若者を戦場へ駆り出した。日の丸の小旗を持ったお母さんたちは、白い割烹着にもんぺ姿で、近所の「お兄さん」を見送る。彼は「滅私奉公」と書かれたタスキをかけ、「天皇陛下とお国のために、立派に死んでまいります!」と挨拶した。万歳が三唱されると、りりしく敬礼する。“名誉ある出征”風景だ。

やがて「お兄さん」たちの何人かは、小さな白木の箱に入って帰ってきた。そんな風景が日常的に繰り返されていた。

「隣組」という監視・密告制度があったから、「ものを言う自由」もなかった。

小学校では毎朝、子どもたちは黒板の上に掲げた額を見上げ、「天皇陛下の御為に、戦争に勝つため、私たち少国民は力を尽くします!」と斉唱した。体育の授業は、等身大の藁人形を竹ヤリで繰り返し刺す訓練だ。校内に配属将校と呼ばれる軍人が軍刀を持って常駐し、睨みを効かせている。

家に帰ると、父は当時なぜか不在で、母が1人で食べ盛りの3人兄弟を育てていた。家財道具や着物を次々に質屋に持ち込み、生活費に代える「竹の子生活」だった。それでも兄弟は、米はおろか、サツマイモでさえ滅多に食べられなかった。

「お兄ちゃん、お腹空いたぁ……」

柴野さんは弟たちのために、田んぼの周辺でイナゴやドジョウ、田螺や川エビを採った。ヨモギやハコベ、イタドリも食用にした。

ろくに採れなかった日、弟たちに泣きそうな顔で見上げられ、居ても立ってもいられなくなった。夕闇の中、近くの畑に忍び込み、青いトマトや痩せた大根を失敬してきた。見つかったら、叩き殺されるのは承知の上だが、背に腹は代えられない。

ある午後、栗や柿を探して鷹峯の山に出かけたところ、小型の戦闘機グラマンと遭遇する。キーン! という甲高い音とともに地面めがけて急降下してきた。わっと伏せた近くの斜面に機関銃の弾が連続して撃ち込まれ、波打つように土煙を上げた。すさまじい上昇音を上げグラマンが飛び去った後も、しばらく足の震えが止まらず、起きあがれなかった。

「あれが銃後の、ぼくの戦争だった」

柴野さんは、遠い目になった。

父は返事をしなかった

ところが敗戦によって状況は一変する。小学3年生のときだ。飢えと混乱、配給、停電、犯罪、喧嘩、戦争孤児、傷痍軍人、夜の女たち……。破綻した国家と進駐軍の駐留。あざ笑うように駆け回る米兵のジープ……。日常生活は惨憺たるものだった、という。

高学年になったある日、『あたらしい憲法のはなし』という黄色い表紙の副読本が教室で配られた。

頁をめくると、大きなるつぼに戦車や飛行機、爆弾を投げ入れた絵に、大きく「戦争放棄」と書いてあった。また当時の首相・芦田均の挨拶文もあった。

【日本は、もう二度と愚かな戦争はしないと世界に誓いました。この憲法をしっかり肝に銘じて、いい国づくりに励みましょう】

「そりゃ、涙がでるほどうれしかったですよ。これまで毎日たたき込まれてきた話とまるっきり正反対のことが書いてあるじゃないですか。ところが、民主主義について学ぶうちに、だんだん腹が立ってきました。〈なんであんな悲惨な戦争をしたのか? 300万人もの日本人や2千万人ものアジアの人々を殺す戦争をしたのはなぜか? 〉〈うちの親たちは何を考えていたのか〉とね」

彼の父は敗戦の翌年、重症の急性肺炎を患い樺太から帰ってきた。その父に、中学1年生のころ、食ってかかったことがある。

「あんな戦争を、なんで許したん? お父ちゃんは、何やってたん?」

短気だった父が、何も言わずに黙っていた。のちに柴野さんは、父に詰問したことを「酷なことをした」と思い知る。

「当時は『主権在君』。親父みたいな低所得者や女性には選挙権さえなかったのです。お国には絶対服従するしかなく、もし戦争に反対したら特高警察に連行され、家族はもっと悲惨な目に遭っていたでしょう」


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