命をいかすために、自転車世周一周の旅再出発
自転車冒険家・エミコ・シールさん

取材・文:塚田真紀子
撮影:谷本潤一
発行:2005年2月
更新:2013年8月

  

「余命半年」からの復活

エミコ・シールさん
エミコ・シールさん
(写真右)自転車冒険家

〈思わぬがんの告知をうけましたが、4年の闘病生活の末、いよいよ旅再開の報告ができる日がきました!〉

2004年秋、友だちの自転車冒険家、エミコ・シールさん(旧姓・阪口恵美子)から手紙が届いた。

エミコさんは大阪で生まれ育った。目が大きく、くっきりとした沖縄風の顔立ちだ。身長156センチ。しかもほっそりとしている。どこに“冒険家”としてのエネルギーがあるのか不思議なほどだ。1人で世界一周の旅に出たところ、現在の夫でオーストラリア人のスティーブ・シールさんと出会った。

「この人となら一緒に夢をかなえられる」と結婚し、2人で11年半、世界一周の自転車旅行を続けてきた。

ところが、そのゴールが間近に迫った2001年12月、子宮頸がんになった。日本に帰って手術を受けた。以来、ずっと大阪の町中で療養していたが、今は奈良の山あいで暮らしている。

そして2004年12月20日、パキスタンから世界一周の旅を再開する、という。

〈がんは、私の人生において、悲劇ではなくすばらしい奇跡の輝きを与えてくれたのでした〉

文面から、エネルギーが伝わってくる。

かつてエミコさんは「余命半年」の宣告を受けた。自転車での世界一周は、体力的にはもちろん、常に身の危険を感じながらの、ハードな旅だ。そんな旅ができるほどの体力と気力を、どのようにして取り戻したのか。ぜひ聞いてみたい。

12月上旬、私は奈良に向かった。

がんとの「共存」

写真:家庭菜園で

最近はすっかり自宅前の畑での家庭菜園にはまっているというエミコさん

JR奈良駅に着くと、大阪よりも空気が冷たかった。車で町中を抜け、山道に入っていく。20分ほど走り、細い脇道を上る。すると山に張りつくようにして建っている古い民家の赤い屋根が見えてきた。近づくと、屋根に乗せた鉄板がさびて赤く見えているのだとわかる。奈良駅周辺よりもさらに冷え込んでいた。

「いらっしゃーい」

エミコさんが欧米式の「抱擁」で迎えてくれた。大きな澄んだ目に人なつっこい笑顔だ。会うのは2年ぶり、2度目なのに、昔からの友人のようにもてなしてくれる。

エミコさんは2004年3月、この家に引っ越してきた。趣味で習っている織物の先生の別荘を借りたのだという。築120年の建物で、入口の奥は薄暗い土間だ。天窓から差し込むやわらかい光に、かまどや流し台の輪郭が浮かび上がっている。

「料理をしながら、かまどの火を見ているだけで心が落ち着くの。お風呂も薪で沸かすから、そこでもぼーっと火を見てます」

家の前には、小さな畝が十数本の、こぢんまりとした畑がある。エミコさんと夫のオーストラリア人・スティーブさんが、胸の高さまで伸びていた雑草を刈り取って耕した畑だ。この日は、ところどころ葉っぱを虫に食われながらも、大根やカブなどの冬野菜がたくましく育っていた。よく見ると、畑には小さな雑草が生え放題だ。

「雑草はほとんど抜かない。虫や雑草と共存しながら野菜たちがサバイバルする姿には、がんに通じるものがあるんですよ。生き残った元気な野菜を食べると、壊れた身体も治っていくんじゃないかと思えるの。今のテーマは『がんとの共存』です」

だが、がんになった当初は怖くて、とてもそんなふうには思えなかった、という。

22歳で世界一周の旅へ

写真:アフリカ、マラウイの村で

生活は素朴だが、おだやかで平和な人々。アフリカ、マラウイの村で(

写真:カザフスタンの砂漠でテントを設営

中央アジア、カザフスタンの砂漠でテントを設営。ラクダが興味深げに集まってくる(

写真:五右衛門風呂で旅の疲れを癒やす

五右衛門風呂で旅の疲れを癒やす。湯に浸かれるだけで、なんとも言えない幸せを感じる。南米アルゼンチンで(

エミコさんは10代のころから、オートバイで日本各地を旅していた。知らない土地を走り、たくさんの人と出会うのが好きだった。その延長線上に「世界一周」を考えたのは、22歳のときだ。1987年、バイクでオーストラリアから1人旅を始めた。 豪州を2年半走ったころ、自転車で旅する電気技師のスティーブさんと出会う。自転車の魅力を知り、バイクから鞍替えした。

エミコさんたちの自転車は、鉄のフレームでできた頑丈なものだ。ママチャリとは全然違う。サドルの位置が高く、ペダルを踏むと、脚がピンと伸びる。このほうが腰を痛めないそうだ。しかも、サドルは前傾しているから、風景をのぞき込むような姿勢になる。これが面白い。スタジアムで野球を観戦しているような角度だ。風景が迫ってくるように見える。ただ、やっぱり「自転車」だから、坂道ではちびちびとしか進まない。食料や水などを積むと、総重量は50~60キロにもなる、という。

そんな自転車で、2人は11年半間走り続けた。1日100キロだ。東南アジアを北上し、アラスカのアンカレッジに飛ぶ。カナダを抜けてアメリカ大陸をアルゼンチンまで南下。ブラジルへ折り返し、そこから飛んで、アフリカ大陸最南端のアグラス岬へ。アフリカ大陸を縦横断してヨーロッパへ。そしてロシア、ウクライナ、中央アジア、中国、パキスタンまで、訪れた国は77カ国、走行距離は約11万キロだ。なんと地球を2周半した計算になる。

バイクから自転車に乗り換えると、“地球は丸くない”ことに気づいた、という。

「地球って、デコボコしているのよ。平坦じゃない。ペダルを1回踏んでも何十センチかしか進まないけど、汗を流しながら何万回も踏み続けると、4700メートルの山も、越えることができる。上る途中で濡れた服を着替えて、ご飯を食べて、地元の人としゃべって。がんばった分、頂上に着いたときの満足感は大きかった。景色もいいけど、下りがまた楽しいの。もったいないから、スーッと下りません(笑)。ゆっくり、『きれいだなぁ』と見回しながらね(笑)」

困難を乗り越えると「自信」が生まれる。さらに大きな目標に挑戦し続けた。

サハラ砂漠では15年に一度と言われる砂嵐に遭遇した。アラスカで灰色熊の親子にも出くわす。世界各地で3000人以上と出会っている。味わい深い旅だったろう。

過酷な旅のストレスで「がん」に

写真:五右衛門風呂で旅の疲れを癒やす

中国、天山山脈4100mの峠越え。5日間野宿で移動した。夜間はテントの中で-20℃を記録(

一方で、ストレスの多い旅でもあった。旅費は、日本で貯めたお金と、自転車雑誌の原稿料、そして現地でのアルバイト代でやりくりした。先の長い旅だから、お金があっても、テントを張って野宿する。

米国・ワシントン州を走っていたころ、2月の気温がマイナス5度前後だった。例年は雪の時期なのに、その年は温暖化の影響で2週間雨が続いた。長時間走っていると、合羽から水が染みこんでくる。テントを張り、濡れた服を“体温”で乾かした。靴下は4足しか持っていなかったから、5日目には、乾いた靴下がなくなる。息を止め、濡れた靴下を一気にはいた、という。

懐が寂しくなり、「何かいいもの落ちてないかな?」と道路を見ながら走っていたこともある。空のペットボトルや服を拾った。

「本当、お金がないのは辛かったね。お金で買えないものが見たい! と旅に出たんだけど、ある程度は必要ですね(笑)」

治安の悪い中南米では、特に「日本人」が狙われる。ブラジルで買い物中、エミコさんは中年の男にからまれた。と、いきなり男は右手で銃を構え、左手を出して「カネ!」と要求した。パスポートと1日分の生活費を渡した、という。日本大使館に行くと、居合わせた日系企業の社員が「それだけで済んでよかったね」と言う。日系人は何人も殺されていた。

コロンビアの山岳地帯では、危険地帯と知りつつも唯一の道を走っていると、ゲリラが現れ、「来い!」と小屋に入れられた。「中国系のオーストラリア人」と説明することで、1時間後に解放された。オーストラリアの大使館は国内にないから、身代金を要求できないと、ゲリラが断念したのだ。

パナマでは、ベルギー人の友人とスティーブさんと3人で歩いていたところ、友人が背後からピストルを突きつけられた。このときは用意していた小銭の入ったビニール袋を遠くになげ、強盗がそれを拾っている間に三方に逃げて助かった、という。

アフリカでは、毎日何百回も「ギブ・ミー・マネー」と言われ、追いかけられた。

旅行中、食事は缶詰や塩漬け肉が多く、野菜をまったく口にできない日もあった。

11年目が過ぎ、パキスタンで不正出血と腹痛があった。ひどくなって受診したところ、子宮頸がんの2b期だとわかる。現地の病院の医師が、緊迫した様子で言った。

「早く手術しないと死にます!」


写真=スティーブ・シール撮影


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