82歳の“先生”が味わった「がんの恐怖」
元教師・橋本幸子さん
「がん」は未知の衝撃!?
橋本幸子さん
(はしもと さちこ)
元教師
神戸は南北を山と海に挟まれた街だ。海寄りの静かな住宅地に、元教師・橋本幸子さんの一人暮らしの家がある。
門扉を入ると、エンジェルトランペットの濃い緑の葉が茂り、日日草が涼しげな白い花を咲かせていた。玄関の上がり口に置かれた木製のコート掛には、色やデザインの違う帽子が7つかけられ、壁には、橋本さんが描いた花や仏の絵が飾られている。
橋本さんは白髪に眼鏡をかけ、淡いグレーのパンツスーツ姿で現れた。そこはかとなく、教師らしさが漂っている。
「人生いろんなことがありましたね・・・・・・。退屈せんと暮らしました」
穏やかな口調で、半世紀以上昔の話を昨日のことのように語る。
軽妙に語られるものの、その人生は波乱に満ちている。母のがん死、戦時中の結婚と夫の死、子どもの病気、自立のための大学進学、自宅が全壊した阪神淡路大震災など、さまざまな困難が訪れるたび、内に秘めた反骨精神で立ち向かっていった。
2004年4月、82歳で乳がんが見つかり、かつて経験したことのない衝撃を受けたという。橋本さんが味わった「がんの恐怖」とはどんなものだったのだろうか。
母のがん死
橋本さんは1938年、16歳のとき、母親を胃がんで失った。日中戦争が始まり、世界大戦が忍び寄っていた時期だ。
姫路の実家は、一面真っ青に広がる田んぼの中の一軒家だった。母が病床について以来、両親と2人の弟のほかに看護婦や家政婦らと暮らしていた。女学校から帰ると、母の布団の横に座り込んで話した。
「早くよくなるといいねぇ」
当時、結核と違い、がんはあまり知られていなかったから、治ると信じていたのだ。
だが病状が重くなり、手術の1カ月後に母は40歳で逝った。「そんなに怖い病気だったのか・・・・・・」と、橋本さんはうなだれた。
母の死後、家政婦は男やもめの家に通うのは世間体が悪いと辞めてしまった。そこで一家は、司法書士である父の事務所の2階に引っ越す。橋本さんは女学校に通いながら弟たちを育てた。卒業後は進学をあきらめ、挺身隊で軍人の布団を縫った。
敗戦の前年の1944年、橋本さんは22歳で結婚する。恩師の親戚にあたる4歳年上の彼は、田舎の旧家の跡取り息子で、姫路の飛行機製作所に勤めていた。縁談は、彼の母親が「戦争に取られる前に跡継ぎを」と望んだものだった。
橋本さんの父は、娘に肩身の狭い思いをさせたくなかったのだろう。家具屋とて売ろうにも品物がない時代にタンス長持ちを探し回り、ついに姫路の山の裏に家具屋が隠し持っているとの情報を得た。どこからかトラックを借り、家具を買い付けてきた。
夜は灯火管制が敷かれるから、結婚式は昼間に行われた。綿帽子に振り袖姿の橋本さんと紋付き袴姿の夫、そして豪勢な嫁入り道具を載せた牛車が、冬の陽射しを浴びて田舎道を練り歩く。それをつぎはぎだらけのもんぺ姿の人たちが、あっけにとられた表情で出迎えた。「狐の嫁入りやなぁ」というささやき声が聞こえた、という。
医師をあきらめ家庭科教師に
戦後間もない、1945年9月、長男が生まれた。その3年後、夫が腎炎を悪化させ、30歳で亡くなる。もともと身体が弱いところへ戦時中の栄養不足と過労がたたった。2人目の子どもの誕生目前で、娘の顔も見ずに逝ってしまった。
さらに3歳の長男が小児麻痺にかかった。大きな病院が近くにある里の家に帰り、毎日、2人の子どもを特注の大きな乳母車に乗せて、病院通いをした。
ところが脊髄に針を刺す治療で、今度は長男が日本脳炎になった。前の患者の針をそのまま使った“医療ミス”だ。長男は意識を失い、高熱にうなされ、生死の境をさまよう。幸い40日後に回復し、右手に少し不自由を残したものの、すっかり元気になった。病院通いは2年間で終わった。
橋本さんは自分一人の力で生きたいと思い、医学部への進学を父親に相談した。だが、いつもやさしい父が、このときばかりは「うん」と言わなかった。愛娘が一生独身で過ごすのを心配したらしい。
父の提案で芦屋の洋裁学校に通うことにした。自立につながることなら何でもやってみたかった、という。師範科まで学び、メジャーと物差しがあれば、どんなデザインの服でも製図できる腕前を身につける。
それでも大学進学があきらめきれない。28歳のとき、周囲の理解を得られる短大に進学を決めた。父は学費を出し、家を建ててくれた。夫の両親は嫁が再婚しない様子に喜び、孫たちを田舎で預かることを快諾した。2年後、洋裁の腕が買われ、高校の家庭科の臨時教員として、神戸市に採用された。同時に夜学に2年間通い、教員免許を取った。33歳のときに正職員になる。その後、親子3人の暮らしが始まった。
安定した仕事を得たものの、子育てには不安がつきまとっていた。橋本さんがぜんそくを発症したからだ。昭和30年代、浜側の工場から煤塵がはき出され、車の屋根が一晩で真っ白になるほど、付近の空気が汚れていた。橋本さんは公害認定を受け、重い発作を起こすたび、「私が死んだら、この子たちはどうなるやろ」と思い詰めた。
避難所生活100日間
1969年、父が肝臓がんで亡くなった。それまでの人生でいちばん堪えた、という。
「もうこれで頼れる人はなくなった。父はずっと『ぼくが死んだら、頼りになるのはお金だけになるよ。兄弟は頼りにならんよ』と言っていましたが、本当でしたね」
父の死後、息子のようにかわいがって育てた弟の一人と、遺産をめぐって裁判で争うことになる。父親の最後の遺言書には、姉弟に等しく遺産が分けられることになっていた。それを長男である彼に写しも含めてすべて渡したところ、後日、「そんなものはもらっていない」と言う。替わりに弟は昔、父が書いた、自分に有利な遺言書を出してきた。父はその弟に自分の面倒をみてもらい、遺産も多めに渡す気でいた。が、晩年、弟夫婦から冷遇され、気が変わったのだ。裁判は高裁判決まで何年間も続いたあげく、橋本さんが敗訴した。
「お金のことになると姉弟でも憎しみ合う。身内同士の裁判なんて愚の骨頂やね。せんほうがいいわ。気ぃ遣うて、腹立てて(笑)」
間もなく長女と長男が結婚し、独立していった。神戸市の高校教諭を定年退職すると、橋本さんは短大の教壇に立った。
そして1995年1月17日午前5時46分、阪神淡路大震災が起きた。
自宅の屋根は丸ごと数メートル先の道路まで飛んで落ち、2階は跡形もなく崩れ落ちた。1階の本棚と本は、家の中から吐き出され、柱も梁も、冷蔵庫も仏壇も、何もかもが倒れた。平屋部分にあった寝床の周辺だけが、奇跡的に難を逃れた。
橋本さんは屋根も天井もない居間に呆然と立ちつくし、天を仰いだ。
「おぉー、空が見える!」
思わず叫び声を上げていた、という。
一帯の建物はほとんど全壊した。近所の人が協力して、建物の下から顔見知りの「若い奥さん」や「お嬢ちゃん」の遺体を次々に引き出す。近所で19人が亡くなった。
近所の公民館の3階に、次々と遺体が運び込まれる。その1階で橋本さんは避難生活を始めた。人がひしめき、隣と布団が重なり合う。電気やガス、水はもちろん、プライバシーもない。真冬の冷え込みで、骨の髄まで凍る。かじかんだ手で配給のパンをちぎり、冷たい牛乳を飲んだ。橋本さんはガムテープに黒マジックで〈負けてたまるか〉と書き、リュックサックの真ん中に貼って、気力を奮い立たせた。
ふとした瞬間に橋本さんが見せる目つきの鋭さには、強靱な闘志が今もみなぎる。
地震から10日もすると、お金に余裕のある人は避難所から出ていった。横暴なボスが君臨し、援助物資をみんなに配らなくなった。ボスに逆らう橋本さんはたびたび罵倒された。肺炎を起こして病院に担ぎ込まれたこともある。心配する息子や友人たちから「うちに来て」と言われても、決して避難所を動こうとしなかった。避難所の人間模様『神戸・横屋会館ものがたり』をつづってミニコミ誌に投稿しながら、延々と100日間もとどまった。なぜか。
それは父が建ててくれた家から離れたくなかったからだ。夜明けとともに毎日通い、思い出をかき集めた。
家の解体の日、作業開始の時間に行くと、廃屋はすでに姿を消し、瓦礫だらけの更地が広がっていた。奥歯を噛みしめて立っていると、風に吹かれて空から舞い降りてくるものに気づいた。しゃがんで拾い上げると、それはセピア色をした父の写真だった。三つ揃いを着て、きまじめな顔でこちらを見ている。まるで「幸子ぉ、幸子ぉ、ここを捨てんとってくれぇ…」としがみついてくるように感じた、という。
「写真が生きている父のように見えてねぇ(笑)。私の将来を案じて建てた家が消えてしまい、父がどんなに悲しんでいるかと、震災後はずっと自分を責めるような気持ちでいましたね。自分が建てた家ならあきらめもつくんだけど・・・・・・」
当時、父の写真を見ると、たちまち涙があふれてきて嗚咽が漏れた。写真をそっとリュックサックの奥にしまい込んだ。
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