希望を持って生きなければ、人間として生まれた甲斐がないですよ
ジャーナリスト・患者会「金つなぎの会」代表・広野光子さん

取材・文:塚田真紀子
発行:2004年7月
更新:2013年8月

  

ピンクの頬紅

広野光子さん
広野光子さん
患者会「金つなぎの会」代表

3月下旬の夕方。

近鉄・名張の駅前には、見上げるほど大きな桜の木が堂々とした風格で咲き初めていた。

ところが、現れた広野光子さん(63歳)は、すでにほどよく咲き誇った桜のような人だった。

頬からこめかみにかけて、鮮やかなピンクのほお紅を差している。同じ色のセーターに、品のいいグレーのジャケット姿だ。あごの線で切りそろえた黒髪は、顔の周りだけ、ブロンドに光る。眼鏡をかけた顔は、漫画『ドラえもん』の「のび太くん」を思わせる。笑顔がどこか艶っぽい。

11年前の1992年に乳がん、その1年後には卵巣がんを経験した。卵巣がんは直腸など5カ所に転移し、夫は、乳がんと合わせて “余命半年”を覚悟したという。

発病前は、生活情報紙の編集長などをしながら、「長男の嫁」として泊り込みで介護にかかわっていた。眠らず、食わず、神経を磨り減らす日々の果てに発病した。以来10年。以前の生活と心を変えることで生き抜いてきたという。

「心を変えたら、身体が変わるんですよ」

広野さんが闘病で掴み取った“がん患者の心得”とは、どんなものなのだろうか。

「長男の嫁」という重圧

発病直前、広野さんは生活情報紙「サンケイリビング」の営業促進部次長として働いていた。職場は大阪・梅田にある。名張から片道2時間かけて通勤していた。

「ごめんなさいねー」

ある日の午後7時前、広野さんはいつものように25人の部下に声をかけて、職場を後にした。長時間勤務が当たり前の新聞社では、まだみんな仕事の真っ最中だ。肩にかけた大きなバッグには、義父の介護用のエプロンと自分の着替えが詰まっている。

近鉄電車の中でおにぎりとちくわの“夕食”を摂る。9時半ごろ、松阪市にある夫の実家に着くと、メモが貼ってあった。

〈当番の人へ。おじいちゃんが不安がるので一人にしないよう、家政婦さんの引き継ぎもきちんとしてください〉

義妹から広野さんへの伝言だった。家政婦と引き継ぎをしようとすれば、午後3時に退社しなくてはいけない。管理職にはとうてい無理だ。切なさをそっと胸にしまい込み、心臓を患っている義父を介護する。

翌朝は5時半に起きて義父の朝食を準備すると、自分は朝食抜きで、午前6時半の大阪行きの電車に飛び乗る。

夫は11人兄弟の長男で、人一倍親思いだった。月の半分は広野さん夫婦が義父の介護を担う日々が5年続き、金銭的な負担も大きかった。それでも仕事を持つ「長男の嫁」への逆風は「お父ちゃんの世話を片手間にやってはる」と、止むことがない。

「ごめんなさいねー」

そう繰り返し、広野さんはやり過ごした。はっきりとものを言う性格のはずなのに、「長男の嫁」は発言できない。ずっと従順な「嫁」であり続けた。

40歳で新聞記者に

義父に尽くす一方、40歳で出合った“天職”を手放す気も、広野さんにはなかった。

高校時代から新聞部で活動し、新聞記者を夢見ていた。同時に、現代詩を新聞の三重版の詩壇に投稿していた。紙面で名前をよく見かける「広野孤郎」があこがれの人だった。芥川龍之介のような線の細い男性を想像しては、胸をときめかす。

ある日、そのあこがれの君が自宅をたずねてきた。同人誌への誘いだった。予想に反して、目がパッチリと大きく、笑顔がまぶしい健康優良児のような人だ。11歳年上だった。たちまち恋に落ちる。21歳で結婚し、専業主婦になった。2人の男の子に恵まれ、満ちたりた日々を過ごしていた。

ところが35歳のとき、夫が四国に転勤したことで、転機が訪れる。1人の時間が増えたのだ。

夫に会いに行くための旅費になればと、産経新聞などの懸賞論文に応募した。入選を重ね、再び書くことに目覚めた広野さんは、40歳で、「サンケイリビング」紙の「奥様エディター」(副編集長)に応募する。100人の中から1人選ばれた。

突如、「副編集長」に高卒で職歴のない中年女性が抜擢されたのだ。しかも生活感を持ち、物怖じしない性格ときている。当然のことながら、中堅層の中には反発し、広野さんにつらくあたる者も……。

だが、そのいじめに対し、仕事の結果を出すことで立ち向かったという。

生活者の実感でつづった記事には、読者からいつも大きな反響があった。たとえば、子育てに悩む若い母親に「閉じこもらないで!」と呼びかけた記事には、読者から相談の電話が殺到した。広野さんは毎朝1時間早く出社し、対応に追われたほどだった。

「同僚にしたらいやな社員だったかもしれませんけど、私、一生懸命だったんですよ」

仕事に就いたころ、子どもたちはすでに大学生と高校生になっていた。広野さんは毎晩、11時ごろ帰宅した。夜の付き合いがある場合は、午前1時、2時に帰宅することもある。それでも毎朝、家族の朝食やお弁当、夕食まで準備し、自分は何も食べないで6時半に家を出る。主婦として、職業人として「けじめ」にこだわり、身体を酷使する生活が10年間続く。自覚のない過労とストレスが澱のように蓄積していった。

そして1992年、職場の健康診断で左の胸に小さながんが発見された。

乳がん、そして卵巣がん

乳がんは1C期で、医師はがんを小さくくり抜く温存療法を勧める。しかし乳房を大きく切除する術法を選んだ。仕事を続けたかったからだという。

「がんを侮っていましたね。生活習慣を見直さなかった」

乳がんの手術から1年も経たないうちに、こんどは超音波検査で子宮の後ろに握りこぶしほどの腫瘍が見つかった。再度の休職で職場の仲間に迷惑をかけられないと、広野さんは辞表を書く。それを受け取りながら上司は、温かく励ましてくれた。

「健康保険がなくちゃ困るだろう。辞表は預かっておくよ。悪いモノが見つかったら、切って切って切りまくればいい」

1993年3月末、広野さんは腫瘍と卵巣の摘出手術を受けた。術後、夫が明るく「卵巣がんの1期やそうだ」と言うのを信じたという。「念のため」という説明で、抗がん剤治療が始まった。

たちまち吐き気に襲われた。皮膚は黒ずみ、身体中に小じわができる。食欲も気力もなくなった。それでもまたすぐに職場復帰できると信じて、耐えたという。

ところが、だんだんと体に力が入らなくなり、抑うつ症状や不眠に悩まされるようになると、広野さんは退職を覚悟したという。体重は9キロ減り、生きている実感もない。髪も全部抜け落ちた。義父の介護ができないことも、心苦しかった。


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