困難をいくつも乗り越えているうちに、「自分の本当の姿」が見えてきた
ミュージシャン・KOUTAROさん

取材・文:塚田真紀子
発行:2004年6月
更新:2013年8月

  

闘病しながらステージに立つ

KOUTAROさん
KOUTAROさん
ミュージシャン

2月上旬、NHKの夕方のローカルニュースで、ミュージシャン・KOUTAROさん(こうたろう・46歳)が紹介されていた。

2年前、末期の肺がんと診断され、脳への転移を抱えている。放射線で脳腫瘍を枯らすガンマナイフなどの治療を受けながらも、詩や曲を作り、ステージに立つ。

黒いニット帽に口髭。浅黒い肌に黒い服がよく映える。人の心をなごませる、やさしい目だ。

かつて影響を受けたという黒人音楽の香りが、その風体にほのかに漂う。

私は、その張りのある力強いボーカルに、聞き入った。なんて心地いい声だろう。力強いだけでなく、人の優しさや哀しみがにじみ出ている。ステージでの彼は、天真爛漫な子どものような明るさで輝いている。

瑠璃色に輝いた地上

草花は咲き乱れ

命の限り強くあれ一輪の花

僕らの歌が聞こえるよ

天に届けよう

君の力になれるのなら

歩き続けよう

「瑠璃色の地上」

闘病している姿と、突き抜けたような明るさ。思いがけず、私の目から涙があふれる。番組が終わったあとも、頭の中でKOUTAROさんのボーカルが響いていた。

私は何に心打たれたというのだろう?

29歳で人生の岐路に立つ

今から17年前、29歳のKOUTAROさんは、東京・原宿の、立ち退きを専門に扱う不動産屋に呼び出されていた。アパートの家賃をたびたび滞納していたからだ。

事務所内には、パンチパーマを当てた厳つい男たちがいた。中でも光沢のあるえんじ色のスーツに金縁眼鏡をかけた、ひときわ凄みのある中年男が親身な口調で言った。

「俺にも音楽をやってる甥っ子がいてねぇ。君とダブるんだよ。俺の顔は丸つぶれだが、家主にかけあってやってもいい。けど裏街道を歩いてきた先輩として忠告させてくれ。君は今、人生の分かれ道に立ってるんだよ。どうするか、これを吸いながら考えてみな」

男は机の上に、まっさらなダンヒルのタバコを2箱、ポンと置いた。

喫茶店で、もらったタバコを吸いながら、KOUTAROさんは自分の行く末をじっくりと考えた。実は音楽的な迷いがあった。

19歳からフォーク、ブルース、R&Bなどいろんなジャンルのバンドで歌ってきた。もともとギタリスト志望だったが、「声が変わっているから」とボーカルに抜擢された。

24歳のころ、音楽の専門学校で発声を学ぶ。1985年、27歳でファンクバンド「アフリカ」にボーカルで参加し、キングレコードからメジャーデビューを果たした。

ファンクとは、黒人独特のリズムを刻む泥臭くてノリのいい音楽だ。カーリーヘアにして、真っ赤なスパンコールのベストに白いスーツ、じゃらっとしたネックレスと、ど派手な衣装で歌った。アルバムは洋楽扱いで、黒人音楽の神様、スティービー・ワンダーのアルバムの横に並べられた。

だが、KOUTAROさんは内心、こっ恥ずかしかった。黒人が丈の短い着物を着て、上手に演歌を歌っているような、“偽物臭さ”を感じていた。曲にも、日本人としてのオリジナリティーはなかった。自分のやっている音楽が何か違うような気がする。

1日おきに8~9時間のリハーサルがある生活なのに、音楽で食べていくのは大変だった。アパートの家賃を溜めては、親からお金を借りて払っていた。

メジャーデビューの夢はかなったものの、行き詰まりを感じ、大阪に引き上げた。

人生を歌で表現する

写真:発症前、気が置けない音楽仲間と
発症前、気が置けない音楽仲間と

帰阪してしばらくは、音楽と距離を置いて暮らしていた。音楽とは関係のない仕事をいくつか経験する。そのころのKOUTAROさんは、自分が本当に音楽をやりたいのかさえ、わからなくなっていた。

音楽をやっていないときのほうが、なぜか音楽について熱心に考えていたという。仕事で出会う人たちのさまざまな人生を知り、感じるものがあった。なぜミュージシャン時代、人生で誰もが経験する、いろいろな思いを歌ってこなかったのかと、悔いた。遠い昔、自作の歌をうたうと心がふるえたことが、懐かしく思い出される。

たまに、東京から音楽仲間がツアーで関西にやってきたときだけ、誘われてスタジオの中で一緒に演奏し、歌っていた。

所属していたバンドは違うものの、関西出身でとても気の合うギタリストは、会うたびにこう言って、KOUTAROさんを音楽の世界に引っ張り上げようとした。

「お前、音楽やっとけよ。音楽やってへんかったら、ただのゴミやぞ」

その忠告を聞き、考えているうちに、KOUTAROさんは自分がミュージシャンだとはっきり自覚する。「バンドを組もうかな」と、このギタリストに打ち明けると、関西のミュージシャンを紹介してくれた。そして結成されたのが、「ジャングル」というバンドだった。KOUTAROさんは自分が実感したことを詩に書くようになった。

35歳ごろからソロでも活動し、歌で表現することを覚えていく。一つひとつの言葉をどう歌えば、詩が生きるのか。持ち味のかすれた声をどこで使えば、効果的か。自分の才能を発見する日々だったという。

「知らない間に、自分の中にいろんな色の絵の具が増えていたような感じでした」

「歌がいい」とファンが増えていく。

私生活では、清楚な印象の美智代さんと出会い、結婚した。何気ないふだんの暮らしに「幸せ」があることを教わったという。

充実感を味わい、「いよいよこれからや」と思っていた2001年10月、血痰が出た。

ブレーキの壊れた自転車で駆け下りる

写真:最愛の夫人、美智代さんと

最愛の夫人、美智代さんと。がん治療の情報は彼女が集めて回った

当時、43歳。連日、CD『SAZANAMI』のレコーディングで喉を酷使していたので、そのせいだと思ったという。

しかし、翌日、翌々日とだんだん血痰が大きくなるので、総合病院へ行った。医師はレントゲン写真を見ながら、「んー」と唸る。KOUTAROさんは「先生、がんですか!?」と医師に詰め寄った。

「そうやなぁ。がんの疑いやなぁ」

まるで頭に氷を詰め込まれたような冷気を感じたという。その日から、仕事をすべてキャンセルして、闘病生活が始まった。

めまいや背中の痛みが強くなっていく。KOUTAROさんが検査や治療を受ける一方で、美智代さんが情報を集めた。ブレーキの壊れた自転車で坂道を駆け下りているような、恐怖と不安に満ちた日々が続く。

25日後、肺がんと確定した。脳に転移していることがわかり、手術の予定が中止になった。美智代さんに説明があった。

「放っておいたら、あと3カ月です」

「……。先生、ちょっと待ってください……」

たちまち涙があふれてきて、医師が治療について図解するのが見えない。病院からの呼び出しで、職場の机の上をそのままに泣きながら駆けつけたが、ここまで怖いことを言われるとは思わなかったという。

美智代さんは涙を拭いて、脳腫瘍を凝固・壊死させる「ガンマナイフ」の説明を聞いた。この機械は、当時大阪に2~3台しかなく、2~3週間待ちがざらだった。それが担当医の配慮で、わずか3日後にこの治療を受けられる手はずが整う。

KOUTAROさんは、やっと自転車のブレーキがかかり、初めて何者かに守られたように感じていた。

入院の日、病院へ向かう車中で、音楽仲間が届けてくれた『SAZANAMI』のサンプルCDを、彼と美智代さんと一緒に聴いた。

君のことは忘れたりはしないさ

君の行く道と僕の道は別々

この地球のどこかで

生きてさえいれば

いつか必ず会える君と君と

「SAZANAMI」

まるで病気を予見していたようなバラードに、3人ともいつしか泣いていたという。

ガンマナイフ=ヘルメット型の固定具の内部に多数のガンマ線発生源を取り付けた装置。放射線を一点に集中させ、ナイフのような切れ味でがんを破壊することができる


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