自分を超えた「何か」が見えれば、死の恐怖は乗り越えられます
精神科医・小澤 勲さん

取材・文:塚田真紀子
撮影:谷本潤一
発行:2004年3月
更新:2013年8月

  

“超人”を見つけた!

小澤勲さん
小澤勲さん
精神科医

自分ががんで、しかもそれが全身に転移していると分かった、とする。命の限りが近い、と医師から告げられた。そんな状況で、いったいどれほどの人が、最初から、その事実を平然と受けとめることができるだろうか?

それができる“超人”の存在を知ったとき、私は不思議でたまらなかった。

小澤勲さん(64歳)は、2002年の春、肺がんと診断された。リンパ節や胸椎などに転移があり、1年後の生存率は50パーセントとわかった。現在は脳に四つの転移を抱えている。それでも、まったく動じることなく、大学での講義や、一般向けの講演・執筆活動をしながら、心穏やかに暮らしている。

その日は、種智院大学(京都市伏見区)で、朝から小澤さんの講義が行われていた。福祉学科を専攻する学生たちに、精神医療の実態を率直に語る。締めくくりは、こんな学生たちへのエールだった。

「病を得てからとくにそう思うんですけど、1人ひとりがやれることは絶望的に小さい。だけど小ささの中にしか希望はないから、初めから希望を捨てたらいかん(笑)。みなさんの小さな力が集まったその中にしか、希望はないと、私は思っております」

中ぐらいの教室は、ずっと静かだった。

ただ大教室の場合は、小澤さんの授業でも騒々しいらしい。そんなとき、心の中には3段階ぐらいの気持ちがある、という。

「『うるさい! もう少しほかの学生に迷惑がかからないようにしろ』と言う自分がいて、その下に〈俺は命を削って授業をしてんのに、聞けや!〉という思いもあるんです(笑)。で、その奥には〈命の限りが近い人がいても、それに目をそむけて生きているのは、健康な証拠や〉という感想も(笑)」

60歳を過ぎたころから、人生の残り時間を意識するようになった。その瞬間の「恐怖感」は、今よりずっと強かった、という。

「健康な人は、死という宿命がある事実を、いつもカッコに入れて生きている。それが告知で突然、〈死という観念〉に向き合うわけです。そのギャップは大きい」

小澤さんの場合、〈死という観念〉に向き合ってきたから、ギャップが小さかったのか。と言っても、それだけでは、次のような経験を平然と受け止めることは、困難だろう。

余命は1年

写真:授業中の小澤勲さん

命がけで授業をしても、それが学生には伝わっていないと感じることもある。でもそれが彼らの健康の証でもある

2002年4月。山が好きな小澤さんは、妻・忍さんと飛騨・高山を旅行していた。そこに、大学から急な電話がかかってきた。

「健診で引っかかっているから精密検査を受けるように、という連絡が入りました」

右の鎖骨のあたりに影がある、と言う。肺がんだろうと察した。

京大の呼吸器外科で精密検査を受けた結果、肺の周辺の小さなリンパ節や胸椎、腰椎、そして肝臓に転移があった。がんはすでに全身に広がっていた。

外来の女性医師はこう言った。

「手術できない場合の抗がん剤治療では、残された時間はけっこうたっぷりあります」

親身で、淡々とした話が、1時間近く続いた。しびれを切らした次の患者がドアを開けて、「まだですか?」と尋ねたほどだ。

この初診以降は一人の診察に長時間をかけることが常である私の主治医にしては、比較的短時間の診療で終えられても不安はなくなった、という。その初診の対応に今、支えられている。

またこのときに、知り合いの同大呼吸器外科の教授から、1年後の生存率は50パーセントだと告げられた。

「医者的に言うと、それは余命1年ということです。自慢じゃないけど、僕はくじ運が悪いから、絶対、悪いほうにしか当たらないだろうと思った(笑)。それで余命1年という区切りを切って生きてきたけれども、幸い、今1年半たっています。周りから『まだ元気そう』と言われるぐらい(笑)」

“葬式用のメッセージ”を執筆

手術はせずに抗がん剤治療を受けることになった。最初の2回にトラブルが起きやすいため、2週間は入院して治療を受けた。これは思いがけない“休暇”となった。2週間も仕事を休むのは、成人して初めてのことだ。

「し残したこと」を考えてみる。

精神科医としての経験から、痴呆を病む人たちが何を感じ、どのような不自由を生きているのか、本を執筆して一般の人に伝えたいと思った。そして、彼らが見せる「透き通るような明るさ」のことも。

「余命1年」なら、自分が動けるのは10カ月と考え、過去に執筆した専門書をベースに、2週間で大筋を書き上げた、という。

「葬式に、ハンカチなどの替わりにメッセージを贈ろうか、という思いもありました」

そして出版されたのが『痴呆を生きるということ』(岩波新書)だ。小説や詩歌が好きな小澤さんらしく、文学的な味わいのある読み物に仕上げた。4万7000部を越すベストセラーになっている。

「僕には、世の中に受け入れられたいとか、有名になりたいとか、そういうたぐいの欲求がないんです。でも、この本が売れていることは、非常に嬉しい。痴呆とともに生きてきた人の思いが、少し世間に届いている。その現場に、自分が立たせてもらっているという感じが強いですね」

母の“遺言”で医師に

医師の道に進むことを決定づけたのは、中学3年生のときの母の死だった。乳がんを病んでいた母が、臨終の床でこう言った。

「医者になって、今は治らない病気を治せるようにしてね」

最初は、自閉症の子どもたちを診る児童精神科医としてスタートした。中高生の不登校や「ひきこもり」もみてきた。

次の病院では、統合失調症(旧・分裂病)の治療が主になった。患者の中心は「自分が自分である」ことがうまくいかずに病む、青年期であることが多い。

「この人たちは、人肌恋しいのに、ストレートに言えないんだろうとか、本当はみんなとうまく交わりたいのに、交わり方がわからないんだろうなと、みていてよくわかりますよ。周りからはとっつきにくいと言われるけど、こっちはもっとみんなに対してとっつきにくいと思っているんだ、みたいな感じとかね(笑)」

なぜなら、小澤さん自身、どこかこの世の枠組みになじみきれない自分を抱えながら、青年期を過ごしてきたからだ。医学界のヒエラルキーにも違和感があった。常に王道を歩むことを避けようとしていたから、精神科を選んだのかもしれない、という。

大学闘争の風が吹き荒れた1960年代末、大学院生の小澤さんは、学生から「お前は院生として、弱者を見捨て、エリートの道を選ぶのか」と、問い詰められた。

自問自答した結果、大学院生を辞め、精神医療を変えるべく、運動の一翼を担った。

「今でも、大学闘争をした経歴があるから、雇ってくれないところが大半です」

と小澤さんは笑う。

世の中の枠組みを懐疑的に眺めていたから、うつ病が好きになれなかった、という。典型的なうつ病といえば、この世の中の枠組みの中で、何かを失ったり、上に駆け上がったりするときに病む、中年期に多い病だ。

「そんなしょうもないことで悩むな! みたいな感じがあった(笑)。だけど、自分も少しずつ歳をとっていくと、そういう人の気持ちもわからないではない」

そうして、うつ病の治療もできるようになったころ、出合ったのが「痴呆」だった。

現役として最後に、深くお年寄りと関わる現場の仕事をしたい、という思いが募る。


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