がんこそ人生の意味と向き合う絶好のチャンスです
臨床心理士、立命館大学教授・高垣忠一郎さん(59歳)
がんを「簡単に切り取られたくない」
臨床心理士、
立命館大学教授の
高垣忠一郎さん
10月半ばの京都は、初冬の冷え込みだった。夕刻の立命館大学のキャンパスには、マフラーを巻いた女子学生の姿も見える。
高垣忠一郎さん(59歳)は大学院で、臨床心理士(カウンセラー)を目指す学生たちを教えている。
研究室をたずねると、インドのお香が漂う部屋の奥から、高垣さんが現れた。一見、平凡な紳士だが、「がん」のとらえ方は極めて個性的だ。
がんが発見されたとき、多くの人は「この厄介な存在」を早くなんとかしたいと思う。何もしないで様子をみる場合は、治療によるデメリットなどを考えてのことだ。ところが、高垣さんは3年前、早期の前立腺がんが発見されたとき、手術を勧める泌尿器科医にこう告げた。
「せっかくできてくれたがんだから、そう簡単に切り取られたくありません」
医師は理解に苦しんだことだろう。「早く切らないともったいないのに」、と。
高垣さんは医師に、こう説明した。
「早期発見のおかげで、がんや死と向き合い、死の準備が十分にできます。生き方を軌道修正することもできます。私の仕事にとっても、貴重な経験になるでしょう。しばらくがんを抱えて生きてみたいんです」
「虫歯ぐらいならともかく・・・」
と、医師は苦笑した。
「わがまま言うようですが、しばらく放し飼いにしておいてください。よろしくおつき合いねがいます」
こう宣言して、高垣さんのがんとの “同棲生活”が始まった。当面の間、がんを切らずにおいたのは、緊迫した状態で、「がんになった意味」を考えたかったからだという。
もちろん、高垣さんとて、がんが怖くないわけではない。それでも簡単に切り取れなかったのは、がんができた場所が、よりによって、「前立腺」だったからだ。
大切な男性性器にできた「がん」
若いころから “恋多き男”で、女性とのセックスをとても大事にしてきた。取材してみると、高垣さんが女性にモテる理由がわかるような気がする。単に二枚目だからではなく、たびたび浮かべる人なつっこい笑顔がまるで少年のようだ。好奇心で目を輝かせる、おしゃべり上手な男の子みたいで、ついつい話に引き込まれる。
高垣さんは、セクシーな女性にクラっとくるタイプの男性ではない。あこがれと懐かしさを感じさせる神秘的な人に惹かれる。そんな女性とのセックスに、この世のものではない「異界」との交わりのようなものを感じた、という。
「自分がなくなり、何か大きなものと一体化するような感じを味わうことは、大きな喜びでした。社会的な仮面もすべて脱ぎ捨てて、身をゆだねる。とどかぬものへのあこがれと、懐かしいものへの回帰。その両方を感じさせてくれるのが女性でした」
前立腺と言えば、女性とつながるための大切な男性性器の一部だ。膀胱の下にある栗の実大の腺で、精子の動きを活発にする前立腺液を分泌している。それだけに、人間ドックで前立腺の炎症や肥大の状態を示すPSA(前立腺特異抗原)の値が18(正常値4以下)と出て、がんの疑いが浮上したときには、あわてもした。
組織検査の結果、早期の前立腺がんだとわかった。前立腺被膜への浸潤や、リンパ節・骨への転移はなかった(T1cかT2)。医師の説明では、手術さえ受ければ長生きできるという話だった。前立腺がんの検査や治療については、高垣さんの著書『癌を抱えてガンガーへ』(三学出版)に詳しく記されている。
ホルモン療法で知った「穏やかな世界」
高垣さんのいちばんの気がかりは、前立腺を全摘出すると男性機能はどうなるのか、ということだった。医師にたずねると、神経を切らないように手術できれば勃起機能の温存は可能だが、精液は出なくなると言う。では射精がなくなれば、「イク」こともなくなるのか? がんや性に関する本を読み進めていくうち、射精をともなわずにオーガズムに達する、「ドライオーガズム」があることを高垣さんは知る。世界が広がった思いだった、という。
がんだとわかったときから、ホルモン療法を受け始めた。前立腺がんは男性ホルモンに刺激されて、大きくなる。そこで、薬で一時的に男性ホルモンの分泌を抑え、女性ホルモン剤を投与するというものだ。
変化はてきめんに出た。乳首が黒ずみ、感じやすくなった。睾丸が締め上げられるような圧迫感を感じる。身体全体がどんよりと曇ったような感じで、性欲と勃起力がガクンと落ちたという。それでも高垣さんはその変化を「穏やかで平和な世界になった」と表現する。では、以前の世界は平和ではなかったのか?
「男性ホルモン・テストステロン。あいつが男を落ち着きなくさせるんじゃないかと思う(笑)。動物園のおりの中の熊みたいに、女性を見るとムラムラするとか(笑)。ぼくも、ムラムラとまではいかないけど、いろんな妄想が浮かんできたりしていました。それが、きれいになくなっていった。感情が穏やかになったと、人に言われましたね」
高垣さんは自分のがんに、「がんを孕んだ」という、慈しみの感情さえ持った。
かつて「不登校」も「がん」だった
「がん」を単なる「厄介ごと」ととらえなかったのは、高垣さんが30年間に渡り、不登校の子どもたちと関わってきた経験も大きい。
「学校に行かない子どもたち」が出現したのは、1950年代末のこと。1973年の石油ショックを経て、70年代半ばからの深刻な不況によって社会での競争原理が強まるにつれ、不登校の子どもたちは鰻上りに増えていった。
そのころ、高垣さんは大学で臨床心理学を研究する、若いカウンセラーだった。殺到する不登校の相談に関わるうちに、いつしかこの問題にのめり込んでいった。
当時は、不登校が「がん」のように恐れられていた。こどもが不登校になると、最初、たいていの親はただオロオロする。「早く学校に戻さないと、社会人になれないんじゃないか」と焦って、何とか学校に行かせようとする。そこで、こう問いかけるのが高垣さんの役回りだ。
「ちょっと待って。学校に行けなくなるのには、それなりのわけや意味があるのだから、彼(彼女)が何を訴えようとしているのか、じっくり考えましょう」
多くの親は、いつの間にか人生をレースのように見なす価値観で、子どもを追い立てようとする。けれど、これではさらに子どもはしんどくなってしまう。そこで初めて「これではいけない」と苦しみ、真剣に子どもと向き合った親たちは、自分自身の人生観と格闘しながら、人生をレースと見なさない生き方があることを認めていく。子どもの不登校を乗り越えた親たちは、最終的に「子どもが不登校になってくれたおかげで、私は人間として成長できた」と、異口同音に言う、という。
がんの場合も、高垣さんは「不登校」と同じスタンスに立つ。
「『不幸』だとか、『厄介ごと』と言われていることでも、向き合いようによっては、プラスのものに転化できる。『これがあったからこそ、僕の人生、実りのあるものになった』というものに変えることができる。
人生をレースだと見なせば、厄介ごとは『処理するもの』。しかし僕は、人生は味わうものだと思う。自分の物語を作り、表現したい。だからがんも『味わってみる』(笑)。人生の醍醐味がぐっと広がります(笑)」
「そんなことを言えるのは、早期がんで余裕があるからでは?」と、感じる人がいるかもしれない。高垣さんは、
「たとえば、『俺が死んだら、幼い子どもはどうなるんだろう?』といった心配から、がんを早く何とかしようとあせることなどは、よくあると思います。それは致し方ないね。せめて周りの人たちには、できるだけあわてず、その人自身のがんとの向き合い方をしっかりと受け止めてあげてほしい。
ただ、僕の場合は早期がんだったけど、たぶんもっと進行していたとしても、やはりがんを“味わっていた”と思います」
と話す。そう思えるのは、高垣さん自身に12年前、母をすい臓がんで看取った経験があるからだ。
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