ずっと死にたかった私が、がんになって、初めて「生きたい」と思った
日本ペンクラブ会員・詩人 属啓子さん

取材・文・撮影:塚田真紀子
発行:2004年1月
更新:2013年8月

  

奇跡のようなラッキーデイ!

属啓子さん
日本ペンクラブ会員・詩人の
属啓子(さっか・けいこ)さん
(東京都・61歳)

その日、奇跡が起きた。

ただし、「**でがんが消えた!」という類のものではない。詩人で文芸評論家の属啓子さんに取材した日の、属さんの体調のことだ。

属さんは3カ月前に、悪性リンパ腫とわかった。取材の日はちょうど2回目の抗がん剤治療が終わったところだった。ここ2カ月で調子のいい日はわずかに1、2日ほどだという。

前日まで「白血球300」(正常値は5000)という超低空飛行を続けていた。3日前には身体中の体力・気力が失われたと感じ、2日間ほどは無力感のなかで過ごしていた、という。

それが取材日の当日、「白血球2000」に急上昇したのだ。嵐がピタッとやんだかのように、穏やかな時間が戻ってきた。

「今日は本当にラッキーな日。少しでもお役に立てればいいなって、体調がよくなることをお祈りしてたの」

ある大学病院の談話室で、属さんは穏やかに語った。たしかに、気分がよさそうだ。

聞くところによると、属さんは、幼いころから、ずっと「死にたい気持ち」を抱えて生きてきた。それが、がんになって、改めてより生き生きと「生きたい」と意識したという。そこにどんな心境の変化があったのだろうか。

属さんの最初のがん体験は、今から3年前にさかのぼる。

「君は、もう女じゃないんだから」

2000年3月、検診で属さんにごく初期の子宮がん(上皮内がん)が見つかった。

すぐに、子宮筋腫で子宮を取った友だちに電話をした。そして、必ずしも開腹手術や、卵巣摘出・子宮の全摘出の必要はないことを知る。

そんな情報を元に、医師に聞きたいことをメモ書きにまとめた。メモの最後に「けっして、怒ってはだめよ」と大きく書いておいた。心ないことを言う医師が少なくないと予想したからだという。

案の定、年配の医師はこともなげに言った。

異形がありますね。手術しましょう」

医師は開腹手術で子宮を全摘し、卵巣も取ると言う。属さんはたずねた。

「卵巣も、ですか?」

「君はもう女じゃないんだから」

属さんはカチンときたが、メモに目を落とすと、怒りを抑えながらこう応えた。

「私は卵巣を取りたくありません。それに開腹手術でなくてもいいと聞いています。帰って、家族に相談してみます」

属さんは別の病院を探した。そして、開腹せずに、内視鏡を使う手術を受けた。卵巣も無事残った。そのとき入院していたのは、外科系の混合病棟だった。

「乳がんの友だちもできて、連絡先をおしえ合いました。楽しかった」

このときは、病気だという実感がほとんどなかったそうだ。

異形=細胞診で細胞の形態や構造を調べ、核に異形があり、細胞質が正常に見えるのを異形成という。

死に場所が見つかった

属啓子さん
8月の一時退院の日に

3年後の2003年6月、属さんは体調を崩した。起きていられないほどしんどかったが、始めはその息苦しさを風邪だと思っていたという。

ところが1週間後、右の乳房にゴルフボール大の硬いしこりがあるのを見つけ、あわてて乳がんの友だちに電話をした。

「がんみたい。硬いのがあるの。あなたのときはどうだった?」

「受診したときには、2センチになっていたのよ。もう遅くってねぇ」

「え?ちょっと待って!私のは5センチはあるよ。あなたの診てもらった先生、教えて」

友人に紹介された大学病院で受診した結果、実は属さんは乳がんではなく、悪性リンパ腫だとわかった。そこで属さんが感じたのは、意外にも「安堵」だったという。

「あぁ、死に場所が見つかった、と思ったの(笑)。私はがんがきっかけで死ぬのだろう、だからそれまで生きていけばいいんだ、と思えました。3人の娘がみんな結婚して、しっかりと生きている。ある意味での『私の仕事』は終わっていました」

ちょうど、属さんが10年あまり尾を引いていた離婚問題にけりをつけ、前向きに歩き始めた矢先でもあった。

「死にたい気持ち」は子どものときから

属さんは4、5歳から、ずっと「死にたい気持ち」を抱えて生きてきた。

多感な少女がいちばん心を痛めていたのは、親との生き方の対立だった。親の「女らしく、男より下がって歩け」的な古風な主張に対して、平等でありたい、という属さんの主張がぶつかったのだ。当時としては両者ともにもっともな言い分であったがゆえに、彼女は劣勢に立ち、悩んだ。しかし、この問題は小学校の高学年で歴史を学んだことで、解けていく。

「歴史を知ったことで、自分の親が歴史のどの位置で少女時代、少年時代を送って、価値観を身につけたかを“発見”しました。自分と親との社会的価値観のズレが、親との対立の根本にあることに気づいた。ふつうであればいちばん尊敬できるはずの親を批判し、一方では未成熟な自分を自己肯定もできないことが、それまでの『自分の死にたかった理由』だったことに気がつきました」

子どもってのはそうよね、とつぶやくと、属さんは声を震わせた。

「子どもって、本来自分の愛するものを否定することがつらいのよね。

歴史観を身につけたことが“私”の始まりでした。親とのいい距離感ができて、親を理解できるようになった。その後、親子喧嘩をしていても、価値観の違い、時代認識のズレだな、とわかり、自分がぶれなくなりました。複数の答えがあっていいのだ、と」

それでも、属さんの「死にたい気持ち」は、心の奥底にずっと続いていた。

医師とのやり取りでこぼれた涙

属啓子さん

入院を前に、友人たちが手料理を持ち寄って、激励会を開いてくれた

悪性リンパ腫だと確定すると、属さんは血液内科に移ることになった。そのとき、属さんは大きな決断を迫られることになる。

その病院は、幼児や仕事を抱える3人の娘たちが、母を見舞うのにとても不便な場所にあった。

属さんは考えた末、転院を主治医に申し出た。

「私を見舞えずに、娘たちは自責の念で『胸が痛くてどうしようもない』と苦しんでいます。このままではみんな病気になってしまいます。患者の病は“家族の病”でもあります。どうか理解してください」

主治医は「わかりました」と快く応じ、これまでの資料を渡してくれた。

その検査データ一式を持って、属さんは転院を望んだ大学病院を訪れた。

ところが外来(内科)の若い医師は「ガリウムシンチ」という、転移を調べる検査を再度受けるように言う。2万円ほどかかる検査でもあり、属さんは医師にたずねた。

「なぜ、また受けるのですか?」

「データがコピーなので、よくわからないんです」

「では、実物を借りてきます」

「それでもねぇ。乳がんかもしれないし、もう1回検査しなくちゃだめですよ」

「乳がんの可能性があるんですか!?乳がんの疑いがある、ということは、外科に行けと言うことですか?」

「それは、僕には関係ないですけどね」

属さんは診察室を出た。

悔しくて、たちまち目から涙があふれてくる。前の病院でいくつもの検査を受けて、「悪性リンパ腫」の診断がついたはずだった。それが今ごろなぜ、「乳がんかもしれない」などと言われなくてはいけないのか。

医師にしてみれば、患者が素直でないので、いらいらする気持ちから「乳がんかもしれない」とか、「僕には関係ない」などと、口走ってしまったのかもしれない。

だが、「この病院で治療を受けたい」と切実な思いを抱えている患者にとって、あまりにも残酷な言葉だ。

ガリウムシンチ=ガリウム-67というアイソトープ(放射性同位元素)を含んだ薬を用いた核医学検査。腫瘍や炎症に集まる性質を利用し、腫瘍や炎症の部位や進行具合を調べる。


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