「がんになって得をした」と思いたい
開業医(小児科医)/医療過誤原告の会会長 久能恒子さん

取材・文:塚田真紀子
写真:谷本潤一
発行:2003年11月
更新:2019年7月

  

「医師のくせに医師を訴えるなんて」

久能恒子さん
久能恒子さん
(67歳、宗像市)
開業医(小児科医)
医療過誤原告の会会長

「生きててよかった、という感じがします」

開業医の久能恒子さんは、2003年6月26日、福岡地裁小倉支部の前で、晴れやかな笑顔を見せた。この裁判の間、3度のがん手術を乗り越えてきた。胸には、三女・紹子さん(享年17)の遺影を抱いている。

久能さんは、紹子さんを11年前、医療事故で亡くした。紹子さんが受けた医療は、それまで久能さんが32年続けてきた医療とは、似ても似つかぬ「心なき医療」だった。

きちんと伝えられなかった病名、そのために実施された危険な手術、説明不足、おざなりにされた術後管理、致命的な挿管交換ミス……。

写真:12際の頃の紹子さんと
12際の頃の紹子さんと

久能さんは1993年、紹子さんの主治医と病院を訴える裁判を起こした。

“かばいあい体質”の強い医学界では、医師が医師を訴えることは「掟破り」だ。実際、医学界の反応は「医師のくせに医師を訴えるなんて、医師の風上にもおけないやつだ」と冷たく、親しい人までもが離れていった。

しかし久能さんは10年間、闘い続けてきた。

そしてこの日、一審で原告側ほぼ全面勝訴の判決が下った。病院側のずさんな対応と医師たちの能力・知識不足が認められ、病院の経営母体と主治医に約7300万円の支払いが命じられた。

「趣味や好みで治療され、放置されてたまるか! 真実を知った上で納得し、娘に報告したい」

そんな思いで、命がけで闘ってきた。これまでに、がんで5つの臓器を失っている。

娘の突然の死

写真:紹子さんが生まれたころの久能家
紹子さんが生まれたころの久能家
写真:幼いころの紹子さん
幼いころの紹子さん

1992年、17歳の紹子さんは、「目が見えにくい」と病院を受診した。外来の医師はこう言った。

「これは下垂体腺腫です。ハーディ法という手術をして1カ月ぐらいで退院できるでしょう」

「下垂体腺腫」は脳下垂体にできる良性腫瘍で、死ぬ可能性は低い。ハーディ法は上唇の奥を切って、鼻の裏側から腫瘍にアプローチし、掻き出す手術法だ。安全性が高いと言われている。

ところがその3日後、入院を担当する若い男性の主治医から、別の病名・手術法を告げられる。

「頭蓋咽頭腫が最も疑われ、開頭手術が必要です」

これは先天性の腫瘍だ。久能さんは外来と違う病名に戸惑いながらも、主治医の言葉を信じた。

そして、久能さんは夫で外科医の義也さんと相談し、娘のために“日本一”と称される脳外科医に手術を依頼したいと考えた。主治医はいい顔をしなかったが、この脳外科医による出張手術が実現した。

手術直後、久能さんは主治医から、前日の検査結果で「下垂体腺腫」と判明していたと、何気ない口調で告げられ、驚く。この結果を待たずに、より危険な開頭手術が実施されたのだ。下垂体腺腫であれば、ハーディー法や薬物療法で治療できたはずだ。

紹子さんは間もなく脳梗塞になり、術後5日目には、完全に意識がなくなる。脳梗塞による2回目の開頭手術を受けても状態はよくならず、ずさんな術後管理のためMRSAにも院内感染した。さらに、人工呼吸器の挿管交換ミスで脳無酸素症が起き、術後1カ月で短い人生を終えた。

その間、久能さんたちが危険を察知して処置を頼んでも主治医は相手にせず、故意に放置するような形で状態は悪化していった。久能さんは「治療にいちいち口出しする母親」と冷たい対応をされた。

治療内容に納得できなかった久能さんは、紹子さんの死後、裁判を決意する。離婚覚悟で家族に告げたところ、夫と4人の子ども全員が賛成した。

MRSA=メシチリン耐性ブドウ球菌。術後などの体力低下により免疫力が弱まっている場合、危険な状態になることもある

精神的ストレスが招いた「がん」

久能さんは宗像久能病院の副院長としての激務をこなしながら、医療裁判を続けてきた。それだけでなく、医療被害に関する各地の集会で発言し、『心なき医療』(ぴいぷる社刊)を書いて、医療の実態を訴えてきた。改善しなければ、医療被害が繰り返される、という危機感からだ。

5年前、久能さんの胃の調子が悪くなった。なのに受診できない。紹子さんの場合のような、若い男性医師にあたったら、と想像しただけで、冷たいものが身体中を走る。

4~5カ月経ったころ、もう流動食しか喉を通らなくなった。そのころ小児科の同門会で、仲のいい女医が不思議そうにたずねた。

「痩せたね。どうやってダイエットしたの?」

「食べられないだけなの。胃がんなんよ」

「何言ってんの、あんた!お腹見せてごらん」

代わる代わるお腹を触った友人たちに強く勧められ、久能さんはやっと病院を受診したという。

進行性のがんだと判明したとき、その結果は夫の義也さんに伝えられた。

「そんな大事なこと、私に言わんと他人に言うの?」

久能さんは夫に怒りながらも、心の中でニヤリとした。「進行性のがん」に合点がいったし、「これで紹子に会える」という思いがあったからだ。

胃がんは3期でリンパ節にもわずかな転移があった。手術では、胃と脾臓を全摘し、膵臓の周りのリンパ節を根こそぎ取った。

術後、流動食を始めようとしたとたん、悪寒とともに急に発熱した。その日からなぜか毎日、決まった時間に「出るはずのない熱」が2週間も続く。闘病中の紹子さんの症状と同じだった。

「あ、これでやっと娘の気持ちが100分の1でも理解できるようになったかな、と思えました」

紹子さんの医療事故とその後の裁判は、予想以上に、久能さんの思いのままにならなかった。それまで1日24時間「医師」として生きてきた久能さんは、「医師である」という大きな拠り所を失った。

かと言って、同じように医療裁判を闘うほかの原告からは「被害者は医師を相手に闘っている。医師を仲間にするわけにはいかない」と一線を引かれる。かつて経験したことのない孤独な日々が「がん」を招いた、と久能さんは思っている。

「味方だと思っていた人の裏切りがいちばんつらかった。自分の気持ちががんじがらめに押し込められたときには、自殺を考えました。ひどいストレスが続くと、体調を崩すのは当たり前。医者は仕事柄、どんな状態でもニコッと笑える。でも自分の身体は、意外とコントロールできてなかったと痛感しました」


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